偉人の遺した言葉、"辞世の句"を紹介。その意味を紐解く

お葬式のマナー・基礎知識
偉人の遺した言葉、"辞世の句"を紹介。その意味を紐解く

この記事はこんな方にオススメです

有名な辞世の句が知りたい
辞世の句の意味が知りたい
辞世の句とは、人が死を予見したときにこれまでの人生を振り返り、この世での最後の文章として書き残すものです。多くの偉人の最後の句を知ることは各人の死生観に触れることであり、この先の人生を考えるきっかけにもなるでしょう。この記事では、辞世の句の概要と、豊臣秀吉を始めとする有名な戦国武将や女性たちの辞世の句を紹介します。

辞世の句とは、死を見据えてこの世に書き残す生涯最後の句

辞世(じせい)とはこの世に別れを告げることを意味します。そして、遠からぬ死を見据えて先人がこの世に書き残した最後の句が、辞世の句です。臨終の間際に限らず、死を予見しあらかじめ書き残した句や、死は意識せずとも生涯最後になってしまった句なども含まれます。
多くは和歌や俳句・漢詩のような詩的な短文で詠まれています。歴史的にも有名な人物の辞世の句もたくさん残っているので、意味や背景を紐解くことで偉人たちの生涯に触れられ、さまざまな教訓を得られるでしょう。

【戦国編】激動の時代を駆け抜けた武将の辞世の句と意味

常に生死と隣り合わせだった戦国時代には、武士たちの辞世の句が数多く残されています。その中から特に有名な武将たちの辞世の句と、その意味を紹介します。

天下統一を果たした『豊臣秀吉』

貧しい百姓の家の生まれから天下人となった豊臣秀吉。明智光秀を破り天下統一を果たした後には、豪華絢爛な大阪城を築いて金の茶室を作ったり、側室を何人も置いたりと、派手な生活をしていたことでも有名です。そんな秀吉が詠んだ辞世の句がこちらです。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
「人生はまるで露のよう(に儚い)。大阪での栄華の日々も、儚い夢のようだった。」と読めます。時代を駆け抜け立身出世を果たした秀吉ですが、最後に振り返ったときには、今までのことが儚い夢のように映ったのかもしれません。
また秀吉は臨終の間際に、遅くできた子どものことを心配していたことも知られています。栄華を誇った天下人でも、最期に思い出されるのは愛する家族だったようです。

歴史上最強の武将とも言われた『武田信玄』

武田信玄は、戦国初期の有名な戦国大名のひとりです。川中島の戦いで、上杉謙信と死闘を繰り広げたエピソードが有名です。織田信長も武田軍の前に一度は敗れ、戦国史上最強との呼び声も。最後は戦陣の中で病没したとされています。死因は胃癌や結核、肝臓病などがあげられており、臨終の際に3年間は自分の死を隠すように遺言したと言われています。信玄が残した辞世の句が以下です。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し(きこつよし) 紅粉を塗らず 自ら風流」
「世の中は世相に任せて生きるものだ。その中で自分を見つけ出して死んでいく。上辺だけで生きるようなことはしてはならない。自分の本心で生きることが一番良いことだ」と解釈されています。見栄を張らずに正直である方が、穏やかに生きていけるという教訓めいた句です。

武田信玄の永遠のライバル『上杉謙信』

先述の武田信玄の永遠のライバルと言われ、「敵に塩を送る」という古語を生んだのが上杉謙信です。信玄とは12年の間に5回戦ったものの、決着はつかなかったとみられています。出陣を前にして意識不明となり、そのまま亡くなったとされる謙信の辞世の句がこちらです。
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「私が死んだあとに行くのは極楽か地獄かはわからないが、私の心は雲のかかってない月のように晴れやかである」という意味です。謙信は仏教に深く帰依していたと言われていて、最期にさっぱりと悟りを開いた様子が見てとれます。

【幕末・維新編】動乱の中を生きた志士の辞世の句と意味

続いて、幕末から維新にかけての世に大きな影響を及ぼした、吉田松陰と高杉晋作の辞世の句を紹介します。

幕末の志士に影響を与えた思想家『吉田松陰』

下級武士の生まれで、幼い頃から俊才だった吉田松陰。松下村塾を開いて子弟の教育にあたり、高杉晋作や伊藤博文など幕末の志士をたくさん輩出しました。幕政批判を強めたため、最期は処刑となった松陰の辞世の句がこちらです。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし 大和魂」
「この身が武蔵野の地で処刑されようとも、思想は生き続けるのだ」という意味です。処刑されることを知った松陰が、弟子たちに宛てた句とされています。この句の通り、弟子たちは松陰の教えを継いで、明治維新に向けて動き出します。
もうひとつ、松陰の絶命時の漢詩として残されているのが下記です。
「我今為国死 死不背君親 悠々天地事 鑑照在明神」
「私はいま国の為に死にます。ここで死ぬからといって君主や両親には背いていません。天地の間で人の営みははるかに続く。これまでの行いを神はしっかりと見てくださっている」と訳されます。
いずれも松陰のまっすぐな思いと、祖国愛が溢れる詩です。

倒幕のため下関で活躍した『高杉晋作』

高杉晋作は、前述の吉田松陰の弟子のひとりです。藩政府の打倒を決起するも、当時不治の病とされていた肺結核にかかり、27歳の若さで亡くなった晋作の辞世の句がこちらです。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
「面白いことのない世の中を、自分が面白くしてやろう」と解釈されることが多いです。後に女流歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)によって「住みなすものは心なりけり」という下の句が付けられました。つなげると「世の中を面白く思うかどうかは、その人の心次第だ」と受け取れ、下の句があることによって印象が変わります。
また松陰と頻繁に手紙のやり取りをしていた晋作は、手紙の中で「正しい生き方をすれば、心が安らかになるときが訪れる。そのときが死ぬべきときだろう」といった死生観も明かしています。

【女性編】美しい言葉で紡がれた歌人・有名人の辞世の句と意味

女性が詠んだ辞世の句は、美しい言葉で表現されたロマンチックなものが多いです。平安時代に活躍した女流歌人や、戦国女性の辞世の句を紹介します。

恋多き歌人『和泉式部』

恋多き女性として知られる平安時代の歌人が和泉式部。数々の恋愛エピソードをまとめた『和泉式部日記』が有名です。以下の辞世の句は、『後拾遺和歌集』にも載っている歌です。
「あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな」
「私はもうすぐ死んでこの世を去るでしょう。あの世への思い出として、もう一度あなたに会いたいものです」と解釈できます。相手が誰かはわかっていませんが、ストレートに気持ちが伝わる情熱的な句です。

源氏物語の作者『紫式部』

紫式部は、平安時代に日本最古の長編小説と言われる『源氏物語』を書き上げ名を馳せました。紫式部の辞世の句がこちらです。
「誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども」
「死にゆくものが書いたものを、いったい誰が読むだろうか。書いたものは消えることがない形見ではあるけれど」という意味です。世の無常を憂いながらも、これまでの作品は形見となって残る、という自信が垣間見えます。

世界三大美女のひとり『小野小町』

世界三大美女のひとりとされ、六歌仙にも数えられる平安の歌人である小野小町。数々の男性を魅了し、恋をテーマにした和歌が多いことで知られています。百人一首にも選ばれ栄華を誇りましたが、晩年に関しては謎が多い人物です。そんな小野小町の辞世の句が以下です。
「あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば」
「私の亡きがらは浅緑の煙となり、最後には野辺にたなびく霞になってしまうのだなあ」という意味です。この世と別れなければならないことを嘆いている様子が表されています。

明智光秀の娘『細川ガラシャ』

戦国武将・明智光秀の娘で、細川忠興の妻として知られる細川ガラシャは、敬虔なキリシタンでした。戦国時代には、婚家と実家で揉めごとが起これば女性は実家に帰されていました。しかしガラシャは、いざというときに帰るべき実家を失っていたので、天国こそが自分の帰るところと心に決めたという背景があります。
そして敵軍の石田三成から逃げられないと悟ったとき、キリスト教では自殺が禁止されているので、家老に自身の胸を槍で突かせました。そのときに詠んだとされる歌が、以下の辞世の句として伝わっています。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
「死ぬべきときを知っていてこそ、花は花となり、人間が人間たりえるのだ」という意味から転じ、「花も人も、散りどきを知っているからこそ美しいのだ」と解釈されています。

辞世の句には詠み人の生涯が映し出される

人生の最後に詠んだとされる辞世の句からは、これまでの生涯や、苦難を乗り越えてきた上での教訓や悟りなどが読み取れます。歴史上の偉人であっても、死は避けられないもの。彼らの言葉は人生の後半から終盤を見つめ直すときの、参考になりそうです。