「愛妻が選んだ“終の住処”」俳優・コント赤信号/小宮孝泰さん【インタビュー前編】~日々摘花 第51回~

コラム
「愛妻が選んだ“終の住処”」俳優・コント赤信号/小宮孝泰さん【インタビュー前編】~日々摘花 第51回~
近年は俳優活動に軸足を置き、舞台のプロデュースも手がけるお笑いトリオ「コント赤信号」の小宮孝泰さん。小宮さんは21年間連れ添った妻の佳江さんを2012年に亡くされています。佳江さんは30歳で乳がんになり、42歳で旅立ちました。前編では佳江さんとともに歩んだ日々のこと、そして、別れについてお話を伺います。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「適当に作ってるんだよ」。料理をほめると照れた妻

−−小宮さんが佳江さんと出会ったのは、テレビ番組のロケ先の沖縄県・久米島だったとか。

小宮さん:若者向けの情報番組だったので、ビーチで遊ぶ水着姿の若い女性にエキストラとして出演をお願いして、協力してくれた人たちの中に、旅行で遊びに来ていた佳江がいました。ビキニ姿で、なかなかのプロポーションでね。東京に戻ってすぐにデートに誘い、それからは普段の僕からは考えられないほどの猛アタックでした。
© 2020 久米島町観光協会
小宮さん:佳江とは性格も合っているなと感じましたし、感覚が似ていました。付き合いはじめたころは僕の趣味や仕事を知ってもらいたくて、出演するトークイベントに誘ったり、アングラなテント芝居やポップな喜劇まで舞台を一緒に観に行ったりしましたが、佳江はどれも素直に楽しんでくれていました。同じものを観たり聞いたりして、同じように感動したり、喜べるというのはうれしかったですね。
−−お二人は小宮さんが36歳、佳江さんが22歳の時に結婚しました。佳江さんは結婚を機に経理事務の仕事を辞め、専業主婦に。お料理がとても上手だったそうですね。

小宮さん:おいしかったです。妻をほめるというのは照れるもので、佳江の生前、自分の思いを彼女にしっかりと伝えられていたかと言えば、心もとないものがありますが、こと料理となると別でした。というのも、僕の父が反面教師だったんです。父は別に怖くも何ともない人でしたが、無口で母の料理がおいしくてもほめたことがありませんでした。そんな父に対し、「どうして『おいしい』って言わないのかな」と思っていたので、僕は妻の料理を口に出してほめていました。照れ臭そうに「適当に作ったんだよ」と言う妻の顔を思い出します。

勉強家で料理も工夫していろいろ作っていましたし、結婚して数年経ったころから通信大学で経済を学んだり、簿記の学校にも通っていました。家計管理に役立つだけでなく、僕の仕事をサポートしたいと考えてくれたようです。実際、ある時期から確定申告は妻に任せていましたし、僕がプロデュースする公演の会計も手伝ってくれて、ずいぶんと助けられました。

誰かのためにやるということが、本当に好きな人でしたね。それは僕以外の人たちに対しても同じだったようです。彼女は大の猫好きで、ちょうど乳がんが見つかる前の年だったでしょうか。猫を飼いはじめ、猫写真の撮影にハマって、カルチャーセンターの猫写真講座に通っていたんです。猫写真仲間もできて、妻は我が家の猫の名前にちなんで「ウリちゃん」と呼ばれていたのですが、妻の他界後、お仲間たちが「ウリちゃんは本当に気配りをする人だった」とおっしゃっていました。妻のおかげで、皆さんとは今もお付き合いがあります。

ノートに綴られていた“気丈さの裏側”

−−佳江さんの乳がんが見つかったのは2001年4月。結婚8年目のことでした。

小宮さん:「大事な話があるの」と言われ、少し前まで夫婦げんかをしていたので、その続きかなと思っていたら、がんのことを知らされました。妻はとても落ち着いていて、がんにはがん細胞が他にも増えていく「浸潤がん」と、増えてはいかない「非浸潤がん」があり、自分は「浸潤がん」だと冷静に説明してくれました。

一瞬、頭が真っ白になりました。でも、一番動揺しているはずの妻が気丈に振る舞っているのだから、僕がうろたえるわけにはいきません。どうにか平静を保ち、その晩は治療のことや、将来のこと、今後子どもができたら、といったことまでいろいろな話をしました。

この時、すでに妻はがんについていろいろと調べていて、『患者よ、がんと闘うな』の著者として知られる慶應大学病院の近藤誠さんを主治医に選び、副作用のリスクを考えて抗がん剤は使わず、くりぬき手術と放射線療法を受けることに決めました​。医師に言われるまま治療を受けるのではなく、薬ひとつでも自分で調べて納得してから使うというのが妻の姿勢で、僕も妻から手渡された本はもちろん、資料をいろいろと探して勉強しました。
左:佳江さんと愛猫のライちゃん、右:小宮さんご夫妻(いずれも小宮さんご提供)
小宮さん:妻のがんはゆっくりとした進行で、がん細胞の大きさも急激な変化はなく、2010年春に骨転移が見つかるまでは、普通の生活をしていました。猫写真に凝りはじめたのはがんが見つかってからですし、夫婦であちこち旅行にも行きました。

病状が落ち着いていた時期も、体調に波があったり、大きくなったしこりを切除する手術をしたりもしましたが、がんの不安を意識しないように暮らしていた感じです。
−−不安を意識しないというのは、簡単なこととは思えません。佳江さんも、そばにいた小宮さんにもさまざまな思いがあったのではないでしょうか。

小宮さん妻は「闘病」という言葉を一切使いませんでした。早い段階から、彼女には「病と闘うのではなく、受け入れて病とともに生きる」という覚悟が備わっていたということだと思います。妻が病気のことで涙を見せたことはなく、妻の生前、僕は彼女の気丈さに救われました。勇気があった、と言えばいいのかな。そこは本当にすごかったですよね。

だけど、本当は怖かったし、不安でたまらなかったと思います。妻ががんの治療経過や生活のちょっとしたことをメモしたノートが十数冊残されていて、彼女が亡くなってから開くと、治療の記録や料理のレシピの他に「この先、私はどうなるんだろう。不安だ、不安だ」と繰り言が書き連ねられているページがありました。

あのページを見たときは、ちょっとびっくりしました。つまり、僕は妻を気丈だと思っていたけれど、そうではなかった。気丈でない部分もたっぷりあるところを、気丈に振る舞おうとしていたんですよね。

亡き妻が探してくれた“優良物件”に今も

−−2012年4月にはがんの肝臓への転移が見つかり、半年後の10月31日、佳江さんは42歳の若さで亡くなりました。ご自宅で息を引き取られたそうですね。

小宮さん:僕たちはずっと賃貸住まいだったのですが、亡くなる1年半ほど前だったでしょうか。妻が「持ち家に住みたい」と言いはじめ、2012年秋に東京・杉並区の分譲マンションに引っ越しました。

物件を探したのは妻です。当時は2匹の猫も一緒に暮らしていて、ペットを飼えることが最優先条件だったのですが、「ペット可」の物件ってそんなに多くはないですよね。立地や耐震性などいろいろなことに配慮しながら選んで、資産価値のことも考えていました。本当に、よく見つけたなと思います。

妻は両親が離婚して経済的に苦労し、高校生のころにそれまで住んでいた家を追われて六畳一間の賃貸アパートでお母さんと弟の3人で暮らした経験があったので、家への思いは強かったはずです。でも、ずっと何も言いませんでした。あのタイミングで持ち家を望んだのは、自分の家で最期を迎えたかったからだけでなく、僕の将来のことも考えてくれていたんだと思います。ひとりになった僕が路頭に迷わないようにって。

引っ越しをしたころには妻の病状がかなり深刻化していて、結局、彼女が新居で暮らしたのは1カ月ほどでした。妻は電動式介護ベッドの手配など自宅介護の環境を全部自分で整えて、信頼できる在宅医療専門の医師を自ら探し、最後の1カ月はその先生に診療をお願いして、自分で選んだ終の住処で亡くなりました
小宮さん:妻が亡くなって12年経つ今も、僕はそのマンションに住んでいます。この先も引っ越すことはないんじゃないかな。妻の生前はDIYなんかやったことがなかったけれど、ひとりになってからは棚をちょこちょこと作ったりして愛着がありますし、変な話、資産価値も上がっていますしね(笑)。妻が探した以上に良い物件を、僕が見つけられるはずもありません。

僕にはどこか鈍感なところがあって、自分では一所懸命やっているつもりでも思いやりが足りず、妻から「孝泰さんはいつもそう」と泣きながら訴えられたことも一度ならずありました。妻が遺したノートを読んで初めて己の浅はかさに気づいたようなことも多々あって、不甲斐ないし、切ないです。

ただひとつだけ、自宅で妻を看取ることができたのは、彼女も喜んでくれたのではと思います。数年前に左肩の腱を切って手術入院した時に初めて知ったのですが、病院のベッドで夜中にひとり天井を見ているのって、さみしいんですよね。ものすごくさみしい。彼女にそういう思いをさせずに済んだことは良かったのかもしれない、と最近になって思います。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
文化庁の文化交流大使として2004年1月から5月末まで暮らしたロンドンです。妻も2回来ました。1回目は僕が王立演劇アカデミーでひとり芝居を演った時で、1週間程度だったかな。2回目は帰国直前で、ロンドン北西の下町・カムデンタウンに借りたフラットで数週間一緒に暮らしました。大家さんが猫を飼っていて、3階の僕の部屋までよく遊びに来てね。猫好きな妻が何とも言えず幸せそうな顔をしていたのを思い出します。

エディンバラ

「イギリスに行ったら、ぜひ足を伸ばしてほしい」と小宮さんが熱っぽく話すのは、スコットランドの首都・エディンバラ。2004年4月に佳江さんとの小旅行で訪れて中世さながらの街並みに魅了され、翌年8月には世界最大級の演劇祭「エディンバラ・フェスティバル・フリンジ」に英語のひとり芝居で参加した。

プロフィール

俳優・コント赤信号/小宮孝泰さん

【誕生日】1956年3月11日
【経歴】神奈川県小田原市出身。1980年、渡辺正行、ラサール石井とともに「コント赤信号」としてデビュー。30代からは俳優として舞台・ドラマ・映画などで活躍。2004年には文化庁文化交流使としてロンドンに演劇留学し、英語の一人芝居にも挑む。役者による落語会「ごらく亭」を主催し高座にも上がっている。

Information

『猫女房』小宮孝泰・著(秀和システム刊)
ご著書『猫女房』
愛妻・佳江さんが遺したノートや猫写真をもとに夫婦の出会いから別離までを小宮さんがつづったエッセイ『猫女房』(秀和システム)。大好きな猫を探した旅の思い出、乳がん告知からの生活、両親や愛猫の看取りなどを小宮さんと佳江さんの死生観を交えつつ、優しい語り口でつづっている。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)