「“ありがとう”を母へ」弁護士、社会福祉士(元明石市長)・泉房穂さん【インタビュー前編】~日々摘花 第57回~
コラム

2011年からの12年間、兵庫県・明石市の市長を務めた泉房穂(いずみ ふさほ)さん。「やさしい社会を明石から」をスローガンに子育て支援策などの福祉支援策に注力し、市の人口や出生率、税収などを伸ばして注目されました。市長退任後はテレビやラジオでも活躍されています。
泉さんの政治家としての原点には、貧しさと闘いながら懸命に働くご両親の姿と、障がいを持って生まれた4歳下の弟さんの存在があります。前編では、ご両親との絆と葛藤、2019年11月に他界されたお母様との別れについてお話しいただきました。
泉さんの政治家としての原点には、貧しさと闘いながら懸命に働くご両親の姿と、障がいを持って生まれた4歳下の弟さんの存在があります。前編では、ご両親との絆と葛藤、2019年11月に他界されたお母様との別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
貧しい漁村に生まれ育った両親の“結婚の誓い”
−−泉さんは明石市ご出身と伺っています。
泉さん:私が生まれ育ったのは、明石市西部の二見町(旧・兵庫県加古郡二見町。1951年に明石市に併合)です。二見町は播磨灘に面した貧しい漁村で、親父は小学生を出て漁師になりました。中学にはほとんど行っていません。親父の兄たちがみんな戦死して、家族を養わなければいけなかったからです。親父の家の3軒隣に住んでいたおふくろの家も貧乏漁師で、おふくろは中学を卒業してすぐに働きに出ました。
親父もおふくろも勉強したくてもできなかった。だから、ふたりの結婚の誓いは「頑張って働いて、子どもが生まれたら高校くらいは行かせてあげよう」というものだったそうです。両親はそういう話をしませんでしたが、親戚が教えてくれました。
その誓い通り、私の知る両親は毎朝2時半に起きて一生懸命働いていました。でも、生活はずっと苦しいまま。おかずはいつも少なかったですし、子どものころは洗濯機がなく、川で洗濯をしていました。貧乏自慢をするつもりはありません。ただただ、貧しい生活でした。
泉さん:私が生まれ育ったのは、明石市西部の二見町(旧・兵庫県加古郡二見町。1951年に明石市に併合)です。二見町は播磨灘に面した貧しい漁村で、親父は小学生を出て漁師になりました。中学にはほとんど行っていません。親父の兄たちがみんな戦死して、家族を養わなければいけなかったからです。親父の家の3軒隣に住んでいたおふくろの家も貧乏漁師で、おふくろは中学を卒業してすぐに働きに出ました。
親父もおふくろも勉強したくてもできなかった。だから、ふたりの結婚の誓いは「頑張って働いて、子どもが生まれたら高校くらいは行かせてあげよう」というものだったそうです。両親はそういう話をしませんでしたが、親戚が教えてくれました。
その誓い通り、私の知る両親は毎朝2時半に起きて一生懸命働いていました。でも、生活はずっと苦しいまま。おかずはいつも少なかったですし、子どものころは洗濯機がなく、川で洗濯をしていました。貧乏自慢をするつもりはありません。ただただ、貧しい生活でした。
泉さん:こうした環境に生まれたので、私は親に「宿題していい?」と尋ね、「いいよ」と言われたら「ありがとう」と言うような子に育ちました。両親がそんな私をどんな思いで見ていたのかは、わかりません。ただ、ある時親父に「“ありがとう”なんてことを子供が親に言うもんやない」と諭されたのを覚えています。
「“ありがとう”と思うなら、心にしまっとけ。お前がいつか結婚して子供ができたら、その子に返してやれ」。「わしのしたいことは、お前らのしたいことをさせることや」。親父の口癖だったこの言葉が、私の生き方、政治家としてのあり方の原点です。
「“ありがとう”と思うなら、心にしまっとけ。お前がいつか結婚して子供ができたら、その子に返してやれ」。「わしのしたいことは、お前らのしたいことをさせることや」。親父の口癖だったこの言葉が、私の生き方、政治家としてのあり方の原点です。
「弟から取った能力を返して」。6歳で人生を決定づけた母の言葉
泉さん:もうひとつ、私の人生を決定づけたのは、6歳の時におふくろから言われた「弟の分まであんたが取った能力を返しなさい」という言葉です。弟はチアノーゼで脳性麻痺の障害があり、2歳の時に「起立不能」と診断されました。その言葉に絶望したおふくろは、弟と無理心中を図ろうとしたんです。でも、死ねずに帰ってきて、泣きじゃくりながら「お前のせいだ。あんたがおると思ったら、死なれへんかった」と私を責めました。
そして、こう言い放ったんです。「何であんたはそんなに何でもできんねん。あんたが(弟の能力を)全部取ってしまったんだ。あんたがかけっこで一番にならなくていいから、弟を歩かせて。テストで満点を取らなくていいから、弟に字を書かせてよ。あんたが取った能力を返して」と。
−−幼い泉さんに「お前のせいだ」「弟の能力を返せ」とは、酷なお言葉に思えます。
泉さん:おふくろは私に似て口が悪いんです(笑)。鬼のような人だったわけではなく、私たちきょうだいを愛情深く育ててくれました。それに、当時は旧優生保護法施行下で「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に、障がいのある方に強制的に不妊手術や中絶手術が行われていた時代です。おまけに当時の兵庫県は「不幸な子どもが生まれないための運動」という差別的な政策を全国に先駆けて展開していました。おふくろが無理心中を図るほど追い込まれた背景には、今では考えられないような障がい者への差別、社会の無理解がありました。
そして、こう言い放ったんです。「何であんたはそんなに何でもできんねん。あんたが(弟の能力を)全部取ってしまったんだ。あんたがかけっこで一番にならなくていいから、弟を歩かせて。テストで満点を取らなくていいから、弟に字を書かせてよ。あんたが取った能力を返して」と。
−−幼い泉さんに「お前のせいだ」「弟の能力を返せ」とは、酷なお言葉に思えます。
泉さん:おふくろは私に似て口が悪いんです(笑)。鬼のような人だったわけではなく、私たちきょうだいを愛情深く育ててくれました。それに、当時は旧優生保護法施行下で「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に、障がいのある方に強制的に不妊手術や中絶手術が行われていた時代です。おまけに当時の兵庫県は「不幸な子どもが生まれないための運動」という差別的な政策を全国に先駆けて展開していました。おふくろが無理心中を図るほど追い込まれた背景には、今では考えられないような障がい者への差別、社会の無理解がありました。
泉さん:とはいえ、6歳の子どもにとっては母親の言うことが全てです。大好きなおふくろに「返しなさい」と言われ、自分の体を引きちぎって弟にあげられるものならあげたいとさえ思いました。でも、それができない以上、別の形で返すしかありません。
だから、私は何でもがむしゃらに頑張りました。子どものころから勉強も運動も一番。野球もサッカーも得意で、柔道は市内優勝、ラグビーでは県大会優勝チームのキャプテンでした。周りからは「何でもできる」と言われましたが、それは違います。私は天才肌ではありませんし、運動神経も特別良い方ではありません。でも、「返す」にはできるように頑張るしかなかったんです。
一方で、頑張って何かをできるようになっても、「すごいね」と言われると、「お前だけ何でできるんだ」と責められているように感じていたたまれない気持ちになりました。だから、私は満点のテストを親に見られないよう隠すような子でした。
だから、私は何でもがむしゃらに頑張りました。子どものころから勉強も運動も一番。野球もサッカーも得意で、柔道は市内優勝、ラグビーでは県大会優勝チームのキャプテンでした。周りからは「何でもできる」と言われましたが、それは違います。私は天才肌ではありませんし、運動神経も特別良い方ではありません。でも、「返す」にはできるように頑張るしかなかったんです。
一方で、頑張って何かをできるようになっても、「すごいね」と言われると、「お前だけ何でできるんだ」と責められているように感じていたたまれない気持ちになりました。だから、私は満点のテストを親に見られないよう隠すような子でした。
やっぱり私は“マザコン”
−−お母様に対して、反抗心は抱かれなかったのでしょうか。
泉さん:そんな暇はなかったです。もともと貧しかったところに、弟が障害を持って生まれ、家が大変なことは痛いほどわかっていましたから。それに、おふくろが何を言おうと、私への愛情を疑ったことはありませんでした。
ただ、6歳のあの日から、私は親に甘えられない子になりました。後におふくろから聞かされたのですが、私は小学校1年生の時の担任だった女性の先生にやたらとまとわりついていたそうです。「甘えたい」という感情がそこに現れていたのでしょう。
−−お母様は2019年11月に他界されました。
泉さん:布団を干しているときに心筋梗塞を起こし、苦しまずに逝きました。ちょうど私が暴言問題で明石市長を辞任後に出直し選挙で再選され、3期目の任期がスタートして半年経ったころでした。心配もかけたのではと思いますが、温かい空気の中で亡くなったのが救いです。
泉さん:そんな暇はなかったです。もともと貧しかったところに、弟が障害を持って生まれ、家が大変なことは痛いほどわかっていましたから。それに、おふくろが何を言おうと、私への愛情を疑ったことはありませんでした。
ただ、6歳のあの日から、私は親に甘えられない子になりました。後におふくろから聞かされたのですが、私は小学校1年生の時の担任だった女性の先生にやたらとまとわりついていたそうです。「甘えたい」という感情がそこに現れていたのでしょう。
−−お母様は2019年11月に他界されました。
泉さん:布団を干しているときに心筋梗塞を起こし、苦しまずに逝きました。ちょうど私が暴言問題で明石市長を辞任後に出直し選挙で再選され、3期目の任期がスタートして半年経ったころでした。心配もかけたのではと思いますが、温かい空気の中で亡くなったのが救いです。
泉さん:6歳のあの日のことを、おふくろが私に話すことは生涯ありませんでした。でも、知人によると、おふくろは生前、「房穂に申し訳ない。あの子は私の言葉のせいで、自分のしたいこともできずに、“しなきゃいけない人生”を歩んでしまった。あの子はもっと楽しい人生を歩めたのに、必死にしなきゃいけないことをやろうと生きてしまった」と悔やんでいたそうです。
おふくろが荼毘に付された時、私は泣き崩れました。あんなに泣いたのは人生で初めて。年甲斐もない話ですが、やっぱり私は「マザコン」なんです。おふくろが大好きだから、おふくろに認められたかった。そういう意味では、おふくろの言葉が私にとってある種の重荷だったのは事実です。
だけど、私は自分の人生を生きてきました。母のせいでつらい人生を送ったとは、微塵も思っていません。むしろ「弟の分まであんたが取った能力を返しなさい」というおふくろの言葉があったからこそ、私は自分の力は自分のものではなく、世の中に返すものだと学び、なすべきことを政治に見出すことができた。「しなきゃいけないこと」を必死にやることが、私の喜びであり、やりがいだったんです。
だけど、私は自分の人生を生きてきました。母のせいでつらい人生を送ったとは、微塵も思っていません。むしろ「弟の分まであんたが取った能力を返しなさい」というおふくろの言葉があったからこそ、私は自分の力は自分のものではなく、世の中に返すものだと学び、なすべきことを政治に見出すことができた。「しなきゃいけないこと」を必死にやることが、私の喜びであり、やりがいだったんです。
泉さん:振り返れば、私は半端ないエネルギーで人生を送ってきました。朝、目が覚めた瞬間からフル稼働。自分のために時間を使うという発想がなく、人のために全エネルギーを使う60年でした。明石市長は3期12年間務めましたが、力が及ばなかったこともたくさんあります。それにもかかわらず、辞任して2年経つ最近でも、駅前で市民が走ってきて「ありがとう」と言ってくれる。こんなに幸せな政治家は日本中探してもそういないでしょう。
親父の「“ありがとう”はお前の子どもに返せ」という言葉と、おふくろの「能力を返せ」という言葉。そのふたつが私に力を与えてくれました。今、私は両親に心から感謝しています。だけど、おふくろはもうこの世にいません。おふくろが生きているうちに「ありがとう」を言いたかった。それだけが悔やまれます。
親父の「“ありがとう”はお前の子どもに返せ」という言葉と、おふくろの「能力を返せ」という言葉。そのふたつが私に力を与えてくれました。今、私は両親に心から感謝しています。だけど、おふくろはもうこの世にいません。おふくろが生きているうちに「ありがとう」を言いたかった。それだけが悔やまれます。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
あんぱんです。気が滅入ったり、しんどい時にあんぱんを食べたらホッとします。ただし、こしあんじゃダメなんです。つぶあんじゃないと。この話をおふくろにしたら、手を叩いて喜んでね。「あんたがお腹にいる時、毎日つぶあんのあんぱんを食べてた。多分、それ(が理由)や」って。喜んでいるおふくろを見て、何かうれしかったのを覚えています。
あんぱんの発祥
あんぱんは明治7年(1874年)、木村屋(現・木村屋總本店)創業者で茨城県出身の元士族・木村安兵衛氏とその次男の木村英三郎氏によって考案された。翌年4月4日、東京・向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇に木村屋により酒種桜(酒種あんぱん)が初めて献上されたことから、4月4日は「あんぱんの日」として記念日に制定されている。
プロフィール
弁護士、社会福祉士(元明石市長)/泉房穂さん
【誕生日】1935年8月19日
【経歴】兵庫県明石市出身。東京大学教育学部卒業後、NHK、テレビ朝日のディレクター、石井紘基氏の秘書を経て弁護士に。2003年、民主党から出馬して衆議院議員に。2011年5月から2023年4月まで明石市長を務めた。社会福祉士の資格も取得している。柔道三段、手話検定2級。
【誕生日】1935年8月19日
【経歴】兵庫県明石市出身。東京大学教育学部卒業後、NHK、テレビ朝日のディレクター、石井紘基氏の秘書を経て弁護士に。2003年、民主党から出馬して衆議院議員に。2011年5月から2023年4月まで明石市長を務めた。社会福祉士の資格も取得している。柔道三段、手話検定2級。
(取材・文/泉 彩子 写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、3月28日(金)です。お楽しみに。