「叔父の遺した小さなポーチ」遠田恵子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第55回~

コラム
「叔父の遺した小さなポーチ」遠田恵子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第55回~
NHKのラジオ番組を中心にアナウンサーとして活躍する一方で、桜美林大学大学院で老年学を学び、現在は同大学老年学総合研究所の連携研究員も務める遠田恵子さん。後編では現在の遠田さんに大きな影響を与えた「永遠の別れ」の体験や、葬儀についてのお考えなどを伺いました。

叔父の辞世の句と追憶のアップルタイム

−−遠田さんは青森県の六ヶ所村ご出身で、「ろっかしょ応援大使」も務めていらっしゃいます。

遠田さん実家は六ヶ所村北部の泊(とまり)という地区で、祖父の代から菓子店を営んでいます。祖父、両親、兄、ふたりの姉、私のにぎやかな家庭で育ちました。きょうだい4人とも中学卒業後は進学のために実家を離れたので、家族が揃う短い時間を大事にしたい、という気持ちが全員のどこかにあったのかもしれません。割と仲の良い家族だと思います。

私が12歳のころだったでしょうか。病気がちで長期入院していた叔父が退院し、私が十和田市の高校に進学するまでの数年間、叔父とも一緒に暮らしました。60歳を待たずに亡くなったこの叔父のことを最近よく思い出します。

叔父は生涯独身だったこともあって、私たちきょうだいをとても可愛がってくれました。姪や甥のために少しでも何かをプレゼントしたいと、入院中、せっせと葉書を書いて懸賞に応募したりしていました。退院後も体調を崩しがちでつらかったと思いますが、私たちに暗い顔は見せなかったですね。家業の経理を一手に担い、印刷したかのように端正な字で帳簿をつけていました。
叔父はりんごが大好きで、口癖は「アップルタイムにしよう」。我が家ではりんごをむくのは子どもたちでしたから、テレビに夢中になっている時に「アップルタイム」がやってくると面倒で、聞こえないふりをしたものです。
遠田さん:叔父が最後に入院した時、私はアナウンサーとして青森テレビに勤務し、忙しく働いていました。入院と聞いて慌ててお見舞いに駆け付けた私を気遣い、「まだ来なくていい」と筆談で伝えてくれました。

天国に旅立った叔父の部屋には、遺影用の写真と保険証券などが収められた小さなポーチがひとつ残されていました。病弱でしたから、常に死を覚悟し、万が一の時に私たちに負担をかけないようにと準備していたのでしょう。叔父の孤独な胸の内を想い、涙が止まりませんでした

叔父は私に愛情を注いでくれたのに、どうして応えなかったのか。「アップルタイム」のりんごくらい嫌な顔せず剥いてあげれば良かった、もっとゆっくり話をすれば良かったと後悔しました。でも、どんなに泣いて、後悔しても叔父は戻ってきません。それが「死」なのだと、大人になって初めて痛いほど実感しました。以来、実家にはできる限り帰るようにしています

叔父の辞世の句は「白鷺や 我が血受け継ぐ 誰もなし」。私も独身で、叔父が亡くなった年齢を超えました。叔父がどんな想いでこの句を詠んだのか、今はわかる気がします。ただ、叔父はさみしさだけを抱えた人ではありませんでした。叔父は感謝の人。叔父が最後に残したメモには、あのきれいな字で家族への感謝の言葉が綴られていました。

私も叔父のように最後まで「ありがとう」を言える人でいたい。そんな思いから、叔父の最後のメモの写真をスマートフォンの待ち受け画面にしています。

人生の先輩直伝“ネガティブをポジティブにするコツ”

−−ところで、遠田さんはご自身の葬儀について何かイメージをお持ちですか。

遠田さん:ある程度の年齢の方にこの先の人生についてインタビューさせていただくと、葬儀の話題になることもあるですが、葬儀についてのお考えは本当に人それぞれ。「大好きなピンク色をご会葬者のドレスコードにして華やかに見送ってほしい」と太陽のように明るいあるタレントさんからお話を伺った時は、その方らしいアイデアだと思いました。葬儀で流すための映像を用意していて、数年ごとに撮り直すという方も。撮影のためにあれやこれやと考えるのが長生きの秘訣だとおしゃっていました。

最近は、家族だけの葬儀も増えてきましたが、家族や親戚だけでなくご近所の方々も交えて大勢で見送る昔ながらの葬儀もいいな、と思います。叔父や父が他界した時はまさにそんな葬儀で、ご近所の助けがなければとてもできませんでした。私の時はどうなるのかわかりませんが、葬儀についてあれもいい、これもいいと想像するのは意外と楽しいものですね。元気に毎日を過ごせているからこそ、と感謝しています。
−−「人生100年時代」と言われますが、遠田さんは現在60代。年齢を重ねていくことを、どのようにお感じになっていますか。

遠田さん:私が大学を卒業し、青森テレビのアナウンサーになったのは1980年代半ば。今では考えられませんが、女性の結婚適齢期が「イブ(24歳)までに結婚しないと、売れ残る」とクリスマスケーキに例えられるような時代でした。「女性アナウンサー30歳定年説」などもささやかれ、アメリカから帰国した30代はじめ、フリーランスになろうとタレントプロダクションの門を叩いた時も、ほとんどの会社の面接で最初に聞かれたのは年齢でした
遠田さん:そんな中、ある会社の社長さんだけが「何をやりたいの?」と聞いてくださり、応募を勧めてくれたのが、NHK「ラジオあさいちばん」のキャスターのオーディションでした。番組が始まってしばらく経ったころにプロデューサーから「大人のキャスターを探していたから、遠田さんを採用した」と聞き、初めて年齢をポジティブに捉えることができました。「老年学」に関心を持ったのは、こうした背景も影響していたように思います。

30代はじめの私は、年齢を重ねることに「怖さ」を感じていました。でも、老年学を学んで「歳を重ねることは、弱っていくことではない。知恵や経験を味方につけていくこと」と確信しました。たくさんの人生の先輩へのインタビューも続けてきた今、人生は歳を重ねてなお面白いと感じています。

先日、歌手の大庭照子さん(86歳)にお会いする機会があり、「80代は面白いですよ!70代は充実している」というお言葉をいただき、励まされました。別の日には、ある90代の方に「90代を迎えて、どうですか」と尋ね、「そんなの、わからないよ。僕だって初めて90になったんだから」と笑われてしまいました。

人生の先輩へのインタビューは私の活力の源。歳を重ねるにつれ、若いころのようには体が動かなくなったり、体型が変わる、声が出にくくなるなど思うようにならないこともあります。でも、今を一生懸命生き、100歳を超えてもなお「毎日新品の明日が来る」とおっしゃるような素敵な先輩たちから、ネガティブをポジティブに転換するコツをたくさん教えていただきました。

我が家は母が90代、叔母たちも100歳前後まで生きて女性が長生きする家系。60代の私はまだまだです。これからも番組をつくり続け、たくさんの方たちにお会いしたいから、元気でいなければと思っています。

別の誰かに「ちょっと夢を」

−−元気でいるというのは大事ですね。健康管理で心がけていることはありますか?

遠田さん「今日中に寝る!」です。12時より1分、2分でも早く寝るよう心がけています。それから、たくさん眠れなくても気にしないこと。12時に寝て4時に起きてしまっても、「4時間しか眠れなかった」ではなく「4時間眠れた」と思うことにしています。
−−最後に読者の言葉のプレゼントをお願いします。

遠田さん「誰かに夢を」という言葉が好きなんです。アナウンサーになったころ、膝に穴の開いたダメージジーンズを履いていたら、「アナウンサーになったんだから、ちゃんとした格好をしなければ」と叔父に叱られたことがあります。
青森テレビ時代の遠田恵子さん(全国中継のひとコマ)
遠田さん:思わず「おじちゃん、このジーンズは今の流行で、おしゃれなのよ」と反論したものの、「お前の仕事は子どもたちの夢なんだから、自覚を持ちなさい」と諭され、ハッとしました。自分の職業の責任を感じると同時に、「誰かに夢を」って素敵な言葉だなと感じたんです。

「誰かに夢を与える」なんておこがましいことは言えないけれど、私も誰かに夢をもらいつつ生きているから、別の誰かにちょっと夢を手渡すような生き方ができるといいな、と思っています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
実家で毎年作るお正月のお煮しめが食べたいです。うちは商売をやっているのでおせち料理を準備する時間がなく、大鍋いっぱいに作ったお煮しめを大晦日から三が日にかけてみんなで食べるのが恒例です。にんじんやごぼう、しいたけのほか、干し魚、肉厚の油揚げや焼き豆腐、ふきやわらびの塩漬けなどを昆布だしで煮るのが我が家流。干し魚のだしがきいて、それはもうおいしいんですよ。ずっと母が作っていましたが、母ももう94歳。最近は兄が腕をふるっててくれています。

お菓子の秋月

遠田さんのご実家が青森県六ヶ所村で営む「遠田秋月堂(お菓子の秋月)」は、1922年(大正11年)創業。下北半島産のブルーベリーをふんだんに使った「ブルーベリーろーるけーき」や青森県産米でついたお餅で、ごまたっぷりの自家製あんを包んだ「ごま六」、六ヶ所村名産の長芋をあんに練りこんだ「とろろまんじゅう」など、地元の素材を生かした洋菓子や和菓子が並ぶ。キッチンカーでの販売限定の「春巻りんご」も人気だ。
「遠田秋月堂」外観と春巻きリンゴのキッチンカー

プロフィール

アナウンサー/遠田恵子さん

【誕生日】1963年10月14日
【経歴】青森県上北郡六ヶ所村出身。青森テレビアナウンサー、米国での日本語補習授業校講師、日本語ラジオ放送局アナウンサーを経てフリーに。帰国直後の1997年から15年間、NHK「ラジオあさいちばん」キャスターを務め、朝の声として親しまれる。現在は「ラジオ深夜便」、「視覚障害ナビ・ラジオ」などラジオ番組の企画・出演・制作を手がけるほか、フェリス女学院大学などで音声表現の授業を担当。桜美林大学老年学総合研究所連携研究員としても活動している。また、ふるさとをPRする「ろっかしょ応援大使」としても奮闘中。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)