「未来は変えられる」泉房穂さん【インタビュー後編】~日々摘花 第57回~

コラム
「未来は変えられる」泉房穂さん【インタビュー後編】~日々摘花 第57回~
兵庫県明石市に生まれ育ち、弁護士、衆議院議員などを経て、2011年より4期12年間明石市長を務めた泉房穂さん。前編では、泉さんの人生の礎を築き、政治家としての資質を育んだご両親との関係性や、お母様との別れについて伺いました。後編では、もうひとりの大切な家族であり、「政治家・泉房穂」の信条にも大きな影響を与えた弟さんへの思いと、ご自身の死生観に迫ります。

明石をやさしい街にする──10歳の誓い

──明石市長時代、泉さんは「やさしい社会を明石から」をスローガンに市政に携わられました。「やさしい社会を明石から」という思いを持ったのは、どうしてだったのでしょうか。

泉さん:明石市で生まれ育ち、貧困と差別に対する問題意識を子どものころから抱いていたからです。両親は一生懸命働いているのに、生活は苦しくなるばかり。2歳で「起立不能」と障がい者手帳に書かれた弟は、必死で努力して小学校入学直前に何とか歩けるようになったのに、自宅近くの地域の小学校ではなく、遠くの養護学校に行くよう行政から言われました。

両親は毎朝午前2時半に起きて働きに出ていました。そんなふたりが足の悪い弟を電車やバスに乗せて養護学校まで連れて行くなんて、どだい無理な話です。家族で粘り強く交渉し、何とか私と同じ小学校に通えることになりましたが、二つ条件をつけられました。その条件とは、「送り迎えを家族がすること」、そして「何があっても行政を訴えたりしないこと」でした。
泉さん:登校時間には大人は誰も家にいませんでしたから、弟の支度を手伝い、登下校の付き添いをするのは私の役目になりました。弟が小学校に入学した当時、私は5年生。いくら近所でも、まっすぐ歩けない弟を連れて登校するのは大変でした。ふたり分の教科書を私のランドセルに入れて弟には空のランドセルを背負わせ、学校のトイレで教科書を移し替えてから、弟を教室まで連れて行きました。そんな私たちを周囲は遠巻きに見るだけでした。

何でこんなに冷たいんや、と悔しかったです。学校の先生も友だちも、近所の人たちも、一人ひとりはみんないい人たちなのに、塊になると冷たい。子ども心に「これはおかしい。一体何なんだろう」と思いました。

その思いが極まったのは弟が入学して間もなく、全校生徒で潮干狩りに出かけた日でした。当時弟は何とかひとりで歩けていましたが、砂浜は足を取られやすく、うつぶせに転んで溺れてしまったんです。わずか10センチの浅瀬でしたが、弟は一度転ぶと自分で起き上がれないので、溺れるには十分でした

遠くから様子を見ていた私が駆けつけて大事には至りませんでしたが、この時も誰ひとりとして弟を助けようとはしませんでした。そんな浅瀬で溺れるとは思わず、何が起きているのかわからなかったのだろうと今は思います。

でも、その時は悔しくて悲しくて。帰り道、ずぶ濡れになった弟の手を引きながら、「こんな冷たい社会、一生かけて変えてやる。明石をやさしい街にしたい」と空を見上げて誓いました。私が明石市長に就任したのは、それから37年後のことです。

弟の満面の笑みで気づいた「幸せは自分で決めるもの」

明石市長時代の泉さん(ご本人提供)
−−泉さんが次々と実施した独自の子育て支援策や福祉政策が功を奏し、明石市は子育てにやさしい街として評判に。市長在任の2011年5月から2023年4月までの間に人口は5パーセント増え、税収も増えて赤字だった財政は黒字に変わりました。

泉さん:数字も大事ですが、街の景色が変わりました。かつての明石は駅前も閑散として子どもも少なく、ベビーカーの赤ちゃんが泣くと、大人が舌打ちするような雰囲気でした。ところが、駅前の開発計画を見直して子どもの遊び場や図書館を作り、障害者対応も充実させたところ、ファミリー層が集う場所になり、商店街も潤って、子どもの泣き声も微笑ましく受け入れられるようになりました。

とりわけ印象に残っているのは、2019年に開催した「ご当地グルメでまちおこしの祭典!B-1グランプリin明石」です。障害のある方々を中心にボランティアを募集したんです。多くの方が「生まれて初めてボランティアをする」とうれしそうに話していました。

聴覚障害の方がトイレを案内したり、車椅子の方が子どもたちにものを渡したり……。これまでは誰かに助けてもらうばかりだった方々が人を助ける側になり、いきいきと活躍してくれました。その姿を明石の町で暮らすみんなが笑顔で見守る。この光景を見た時、涙が出ました。10歳の時につくると誓った「やさしい街」が目の前に広がっていたからです。

弱い立場にある人たちを一方的に助けることが「やさしさ」ではないと私は考えています。私が作りたかった「やさしい街」とは、「誰ひとり残さない街」。障がいの有無に限らず、みんながそれぞれの幸せを尊重し、一緒に暮らせる町です。
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明石市長時代の泉さん。「B-1グランプリin明石」会場にて(ご本人提供)
泉さん:人にはそれぞれの幸せがあり、幸せとは何かを決めるのはその人自身。ほかの誰でもありません。そのことを私に教えてくれたのも弟でした。潮干狩りの一件があった翌年の秋の運動会でのこと。2年生になった弟が、運動会の徒競走に出たいと言い出したんです。1年生の時は黙って見学していたのですが、2年生になって「どうしても出る」と言い張って。

私も両親も「走れないし、迷惑がかかる」と止めました。でも、弟は聞く耳を持ちませんでした。今の時代なら少し前から走らせるなど配慮もあるでしょうが、当時はただ「どうぞ」という感じ。案の定、全員がとっくにゴールしても、弟はスタート地点から10メートルのところをふらふらと歩いていました。「だから、言わんこっちゃない」と心の中でつぶやきました。友だちの手前もあり、「みっともない。止めればよかった」なんてことも思いました

ところが、ふと弟の顔を見ると、満面の笑みだったんです。「こんなにうれしそうな顔、見たことがない」と思ったら、涙があふれました。周りの人たちが冷たいなんて思っていたけれど、「弟のため」なんて言いながら人の目を気にして走らせまいとした自分が一番冷たい。自分がいかにろくでもないかを思い知ると同時に、人の幸せは本人が決めるものだと肝に命じました。もう、あれはね、衝撃でしたよ。

天国より地獄が性に合う

−−泉さんの死生観についても伺わせてください。“死”をどのように捉えていらっしゃいますか。

泉さん大学時代に私は学生寮の委員長を務めていたのですが、寮費値上げや寮廃止の動きに反対してストライキを起こし、その責任を取って学部長に退学届を提出(半年後に学部長から直接連絡があり、復学)。何もかもに疲れ、インドに旅立ったことがありました。写真家の藤原新也さんの、ガンジス川のほとりで犬が人の死体を食べる写真に衝撃を受けて訪れたんです。

インドには3週間ほどいて、ガンジス川で遺体が焼かれる様子を3週間見続けました。肉体が炎に包まれ、朽ちて川に戻されていく。その光景を見てある種達観しました。人は必ず死んでいく。でも、命があるうちは精一杯生きようと。

市長時代、私には敵も多く、就任当初から自宅の郵便受けに脅迫文が投げ込まれ、最後の年には「8月までに辞めないと殺害する」という脅迫メールが100通以上届きました。でも、辞めませんでした。「俺は十分生きた。もう殺されてもいい」と動じない自分を発見して、むしろうれしかったです。
インドの子供たちに囲まれる東大生の泉さん(ご本人提供)
泉さん明石をやさしい町に変える──。私は、10歳で空に向かって立てたあの誓いに忠実に生きてきました。50年かけてやり切り、一生分は生きた気がしています。「貧乏漁師の子ども」と言われた自分が必死に勉強して明石市長になり、12年も市政に携わらせてもらえて、退任後も市民が「ありがとう」と言ってくれる。それ以上のことがあるでしょうか。でも、まだ61歳。これからは、もう少し肩の力を抜いて、多くの人と一緒に世のため人のために何ができるか考えていきたいと思います。

「死んだら天国に行きたい」とみんな言いますが、私は地獄がいいと思っています。天国って、何かまぶしいじゃないですか。私には地獄の方が性に合います(笑)。世の中に不公平や貧富の差が残る限り、私は弱い人や貧しい人の側に立ちたい。天国に定員枠があるなら皆さんに席を譲って、私は地獄で閻魔大王と仲良く暮らします。
−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

泉さん:明石市長時代、市民からいただいてうれしかったのは「明石は政策が変わり、街の風景も変わった。でも、一番変わったのは、みんなの気持ちや」という言葉でした。ひとりの政治家が政策を変え、人口増加や税収アップなどの数字に結びついたとしても、それだけでは何も変わりません。実際、私は就任1年目で財政を黒字化させましたが、その時点では街にはまだ「どうせ何も変わらない」というあきらめが蔓延していました。変わりはじめたのは、一人ひとりが生活の変化を実感して街に誇りを持つようになり、明石をみんなで変えていこうという機運が生まれてからです。

つまり、明石を変えたのは私ではなく市民一人ひとりでした。あきらめを捨てて、「できない」と思い込んでいることを「こうすればできる」と考えるようにすれば、未来は必ず変わります。未来は変えられる。あきらめないで、と皆さんにお伝えしたいです。

~EPISODE:癒しの隣に~

沈んだ気持ちを救ってくれた本・映画・音楽などがあれば教えてください
私の癒しは、お地蔵さん。故郷の明石市二見町は貧しい漁村で、江戸時代には餓死者もたくさんいましたし、子どもの「間引き」も行われていたので、お地蔵さんがやたら多いんです。生まれ育った家の裏手にもお地蔵さんがあり、幼いころから朝晩手を合わせて「行ってきます」「ただいま」と声をかけていました。何か後ろめたいことがあった日はお地蔵さんが怒った顔をしているように見えましたし、ちょっといいことをすると、笑っているように見えたものです。今も、町を歩くとお地蔵さんに目が行くんです。お地蔵さんが笑ってくれると、安心しますね。

地蔵盆

地蔵盆とは、8月24日前後に主に関西地方で行われている地蔵菩薩を崇めるお祭りで、子どもたちにお菓子を配ったり、お寺や町内で縁日が営まれたりする。「お供え物をみんなで食べる」という風習が変化をして、夏のハロウィーンイベントのようになったとのこと。明石市でも自治体などが中心になって地蔵盆が行われている。

プロフィール

弁護士、社会福祉士(元明石市長)/泉房穂さん

【誕生日】1963年8月19日
【経歴】兵庫県明石市出身。東京大学教育学部卒業後、NHK、テレビ朝日のディレクター、石井紘基氏の秘書を経て弁護士に。2003年、民主党から出馬して衆議院議員に。2011年5月から2023年4月まで明石市長を務めた。社会福祉士の資格も取得している。柔道三段、手話検定2級。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)