「8時半の女」女子ソフトボール元日本代表監督・宇津木妙子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第50回~

コラム
「8時半の女」女子ソフトボール元日本代表監督・宇津木妙子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第50回~
2008年北京五輪に続き2020年東京五輪で13年ぶり2連覇を達成し、2028年ロサンゼルス五輪での活躍にも期待が高まる日本の女子ソフトボール。宇津木妙子さんは実業団の強豪・ユニチカ垂井の内野手として、引退後は日本代表チームに2つのメダルをもたらした指導者としてその礎を築きました。

華々しい活躍の裏には試練もありましたが、「“努力は裏切らない”を座右の銘に走り続けて来た」と言います。前編では、そんな宇津木さんを支えたお父様との思い出と別れについて伺いました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

厳しかった母と、ストレートに愛情を注いだ父

−−宇津木さんのお父様は1987年3月、お母様は2001年1月に他界されています。おふたりは宇津木さんにとってどのような存在でしたか。

宇津木さん父は関電工の社員で、母も祖父母の畑仕事を手伝いつつ地元の工場で働いたりして、兄3人と姉、私の5人きょうだいを育ててくれました。私は子どものころから負けん気が強く、長年ソフトボールの世界でやってこられたのも、負けたくない、あきらめたくないという強い思いがあったからです。その思いを育ててくれたのは両親で、父にも母にも感謝しています。ただ、父と母とでは私に対する愛情のかけ方がまるきり逆でした。
20代前半、実家の庭で父と写る宇津木さん
宇津木さん:母は厳しく、末っ子の私はいつも兄や姉と比較されました。学校の成績が良かった兄や姉と違って私は勉強が得意ではなかったので、母から「あんたは恥ずかしい」と言われたこともありました。悔しくてね。得意のスポーツで一番になり、母を見返したいと思って中学で始めたのがソフトボールだったんです。母は私には冷たいところがあり、反発もしましたが、「母に認めてもらいたい」という思いが私に頑張る力をくれました。

母とは対照的に、父はひたすら私を可愛がりました。記憶には残っていませんが、幼い私におせんべいを噛んで柔らかくして食べさせるようなことまでしてくれたそうです。私は顔立ちが父に似ています。また、父の会社は東京・新宿にあり、当時埼玉県川島町の家から通勤するのは難しく、長年単身赴任をしていました。家族と離れて暮らしていたこともあって母やほかのきょうだいとはどこか距離があり、自分に似ている私を愛しく感じたのかもしれません。ほかにきょうだいもいるのに、なぜか私に「家のことはお前に任せる」と言い、私も物心ついたころから両親の面倒は自分が見ると思っていました。

父は私に甘かったけれど、甘やかすことはしませんでした。中学生の時、母に反抗的な物言いをした私を「その態度はなんだ」と父が叩きました。うちは両親ともに子どもに手をあげることは滅多になく、母が私を叩いたことはありません。父に叩かれたことがあるのはきょうだいの中で私だけで、その一度きりでした。

生意気盛りでしたから、叩かれた瞬間はムッとしましたよ。でも、父の言うことはその通りでした。だから、初めて素直に母に「ごめんなさい」と言えた。ああ、父はこんなにも真剣に私に向き合ってくれるんだなって、愛情をすごく感じました。

「付録」と呼ばれ、新幹線のトイレにこもって泣いた日

−−宇津木さんは星野女子高校(現・星野高校)ソフトボール部を経て、岐阜県のユニチカ垂井に入社し、当時1部リーグだったソフトボール部で活躍されました。お父様は当初、実業団入りに猛反対されたそうですね。

宇津木さ:父は「大学に進学して、体育教師になれ」と言っていましたが、私は実業団入り以外の道を考えられませんでした。当時はプロ野球で長島茂雄さんや王貞治さんなどスター選手が華々しく活躍していた時代。野球とソフトボールでは競技環境が異なるものの、トップリーグで勝負したいという思いがありました。

「ユニチカに行きたい」と言った時、父は「ダメだ」の一点張りでした。ユニチカに入れば、私は寮暮らし。父はやっぱり、私を手放したくなかったんでしょうね。最終的には当時のユニチカの監督が「娘さんは素晴らしい。すぐにレギュラーで使いますから」と父を説得し、渋々許してくれました。

父も私も監督の言葉を信じていましたが、私が現実の厳しさを知るまでに時間はかかりませんでした。忘れもしない昭和47年(1972年)3月10日。一緒にユニチカに入る同級生のエースピッチャーとその子のお父さん、父、私で新幹線に乗って岐阜に向かう前、地元の駅まで見送りに来た先生から「お前はピッチャーの付録だから」と言われたんです。

彼女には「関東ナンバーワン」と称されるほどの実力がありました。私がスカウトされたのは彼女との抱き合わせだったわけです。後で聞いたら、先生は私に発破をかけようとしてそのことを話したらしいのですが、ショックでしたね。涙をこらえて「行ってきます」と頭を下げましたが、新幹線のトイレにこもって泣きました。事情を知らない父の怪訝そうな顔を覚えています。

私を送り届けた後、父は岐阜に一泊し、翌日帰って行きました。父はすごく真面目な人で、私用で会社を休むことはほとんどなく、この時が初めてだったと思います。別れ際、父の目には涙があふれていました。言葉少なに帰って行った父の背中が今も忘れられません。

毎日1分の電話。父の声が13年の選手生活を支えた

−−ユニチカに入社後は、つらい思いもされたそうですね。

宇津木さん:社会人と高校生の力の差を見せつけられる日々でした。一緒に入団した同級生はすぐにレギュラー入りしたのに、私は打てないし、守れない。悔しさをバネに練習に励もうとしましたが、先輩から「新人が練習するのは生意気だ」と言われたりして途方に暮れたものです。早朝にランニングをしたり、夕方の練習が終わって先輩たちが帰ってから練習し、入社した年が終わるころ、ようやくレギュラーに定着しました。

ソフトボール部の練習は夕方にあり、午後3時までは会社の仕事。総務部に配属され、最初の3年間、午前中は寮生約3000名が住む社員寮への郵便配達、午後はトイレ掃除が仕事でした。トイレは汲み取り式。長靴を履き、50歳くらいのおじさんと一緒に深い溝に潜り、詰まったものを木のブラシで落とすんです。初めて仕事を教わった日は、ソフトボールをするために入社したのに、なんでと人知れず泣きました。

−−お父様は心配されたのではないでしょうか。

宇津木さん:私は親に迷惑をかけたくないという気持ちが強く、父にも母にも弱音を吐くことはありませんでした。ですから、父は何も知らなかったはずですが、ユニチカに入った当初は毎晩8時半に必ず電話をかけてきました。寮生に電話があるとアナウンスが流れるので、私についたニックネームは「8時半の女」(笑)。ソフトボール部の先輩からは「甘えるな」と意地悪もされましたが、父に「やめて」とは言えませんでした。

毎晩の電話と言っても、当時は電話代も高く、長くても1分ほどの会話です。「元気か」と聞かれて「元気。大丈夫だよ」と答えるだけ。それでも、父の声を聞くと励まされました。心身ともに厳しい日々の中、どんな時も自分を認めてくれる存在がどれほどありがたかったか、言葉にできません。ユニチカで13年間ソフトボールを続けられたのは父のおかげです。

だから、現役引退後、日立高崎の監督に就任して2年目に父を亡くした時の悲しみは、想像を絶するものでしたね。親戚や近所の方々がたくさん弔問に来てくださる中、人目をはばからず何日も泣き続け、母から「いつまで泣いているの。恥ずかしい」とたしなめられました。それでも涙が止まらなかった。寂しくて、十分に親孝行できなかった自分が悔しくて。

結婚をして安心させたかったとか、ソフトボール三昧だったけれど、もっと父との生活を大切にすればよかったとか、毎日違った後悔しが押し寄せてきて、涙が止まらなかった。本当に、恥ずかしいくらい泣きました。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
埼玉県東松山市にある箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)のぼたん園に行きたいです。父と最後に一緒に行ったのがここでした。当時私は現役を引退し、埼玉県比企郡の実家で両親と暮らしていた時期。ジュニア選手権日本代表チームのコーチを務めるなど忙しくしてはいましたが、休みの日にはすでに定年を迎えていた父と山へ行ったり、花見をしたり。日立高崎の監督に就任するまでの半年あまり、親子でゆったり過ごす時間を持てました。今思えば、かけがえのない時間でしたね。

箭弓稲荷神社ぼたん園

写真協力:箭弓稲荷神社
箭弓稲荷神社は東武東上線東松山駅より徒歩3分。境内のぼたん園では約3500平米の園内に1300株を超える牡丹を有し、毎年4月中旬から5月初旬にかけて開催される「ぼたん祭」の時期には多くの観光客で賑わう。宇津木さんがお父様とともにぼたん園を訪れたのは1985年5月。色とりどりの牡丹に加え、つつじや藤の花も美しく咲き誇り、華やかな光景がまぶたに残っているという。

プロフィール

女子ソフトボール元日本代表監督/宇津木妙子さん

【誕生日】1953年4月6日
【経歴】埼玉県比企郡川島町出身。中学1年生からソフトボールを始め、ユニチカ垂井ソフトボール部で内野手として13年間活躍。引退後、ジュニア日本代表監督を経て86年より日立高崎(現・ビックカメラ女子ソフトボール高崎)監督。シドニー五輪、アテネ五輪で日本代表監督を務めた。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、8月30日(金)です。お楽しみに。