「仏様に『みんなを守ってね』」宇津木妙子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第50回~

コラム
「仏様に『みんなを守ってね』」宇津木妙子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第50回~
日本のソフトボール界で初めての女性監督として日本代表チームを2000年シドニー五輪で銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダル獲得に導いた宇津木妙子さん。2005年には日本人で初めて国際ソフトボール連盟に指導者として殿堂入りし、現在もソフトボールの指導や普及活動で忙しい日々を過ごしています。後編では、70歳を超えてなお精力的に活動を続ける宇津木さんの今につながる亡き人たちへの想いを伺いました。

父の涙と激励で、リーグ初の女性監督に

−−宇津木さんは現役引退の翌年、1986年に日立高崎女子ソフトボール部の監督に就任し、指導者としての道を歩みはじめました。今でこそ実業団のソフトボール部の女性監督は珍しくありませんが、当時としてはリーグ初でした。

宇津木さん:ユニチカ時代は日本代表選手として世界選手権に出場したり、キャプテン、ジュニアチームのコーチも務め、ソフトボールに関するあらゆる経験をさせてもらいました。総務部の仕事も、トイレ掃除に始まって採用、経理、女性ばかり200名の寮の寮母まで保険関連の業務以外は全部担当させてもらったんじゃないかな。

どの経験も貴重で、監督として選手の指導をするうえで生きましたが、引退した時は、自分が指導者になろうとは想像していませんでした。当時、私は31歳。結婚で辞める仲間も多かった時代です。20代後半になったころから父に「帰ってこい」と再三言われていたので、1985年4月に埼玉の実家に戻りました。

父は私が婿を取って家を継ぐことを望んでいて、お見合いも3回ほどしたんですよ。結局、私が家でじっとしていられず、母校の後輩の指導をしたり、日本代表のチームコーチをしたりと忙しくなって、なし崩しになりましたが…。
宇津木さん:日立高崎の総務課長さんから「トレーニングコーチをしてもらえませんか」と電話があったのはそんなころでした。前任の監督が辞めたばかりで指導者がいないから、冬場のオフの時期だけでも来てほしいという話で、当初は「時間を持て余すよりいいかな」と思って引き受けました。ところが、1カ月ほど経って工場長の佐々木威さんから監督就任を打診されました。

そのころの日立高崎は3部リーグをうろうろしている弱小チームでしたが、指導しがいのある選手がいましたし、練習環境も良く、やってみたいという思いはありました。でも、当時の日本リーグに女性監督はおらず、すぐにはお返事できませんでした

高校のソフトボール部の顧問だった先生に相談すると、「やめておけ」と諭されました。引き受ければ苦労することが目に見えていますから、先生のおっしゃることももっともです。ただ、やっぱり挑戦してみたかった。それで、お正月に実家に帰った時に、父に相談をしたんです。

正座をして父と向き合い、話を切り出すと、父はすでに私が結論を出していることをわかっていたんでしょうね。「監督というのは、時には社長のように人を引っ張り、時には事務員のように雑用もしなければならない。選手はみんなお前の背中を見る。いい加減なことはできないぞ」と覚悟を問われました。

その時に初めて、父にすべてを打ち明けました。学生時代にいじめられて苦労したことや、ユニチカに入社して3年間トイレ掃除の日々で葛藤したことなど、ずっと父には見せないようにしていた自分の弱い部分を洗いざらい話したんです。すると、父が「苦労はしていると思っていたけれど、そこまで」と泣き出しちゃってね。その姿を見て、「お父さんはなんて弱いんだろう。私は泣かないのに」と思い、「これからは、親に心配をかけるようなことだけはしない」と心に誓ったものです。

ただ、父はやはり父でした。泣きながらも私に「チーム理念は?」​と問いを投げかけたんです。「強くて愛されるチームを作りたい」と答えると、父は「だったら、3年間頑張れ。3年で結果が出なかったら、辞めろ」と言ってくれました。その言葉に背中を押されて監督を引き受けました。

父が亡くなったのは、それから1年後。私が日立高崎の監督に就任して2年目、ちょうどチームが2部リーグに昇格した矢先でした。念願の1部リーグ昇格を果たしたのは、その年の終わり。父との別れはつらく、悲しかったけれど、「3年で結果を出す」という父との約束が心の支えになりました。

愛弟子・宇津木麗華と母のちゃんちゃんこ

−−その後、宇津木さんは女子ソフトボール日本代表監督を務め、2000年シドニー五輪で銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダル獲得に導きました。お母様が亡くなったのはシドニー五輪の翌2001年1月、宇津木さんの披露宴の1週間前だったそうですね。

宇津木さん:心筋梗塞で倒れ、急なことでした。最後に母と話をしたのは、2020年東京五輪の女子ソフトボールで日本代表監督を務めた宇津木麗華さんです。麗華は1988年に中国から来日して日立高崎に入り、最初の4年間は私の実家で下宿していました。母は麗華を実の子のように可愛がり、麗華も母を慕ってくれました

母は麗華との最後の電話で私の披露宴についてうれしそうに話し、貯金通帳や印鑑の場所から金庫の番号までお金関連のことを麗華に伝えていたそうです。おかげで、いろいろと慌てずに済みました。母は自分が亡くなることを知らなかったのに、不思議なこともあるものですね。

私と母は相性が良くありませんでしたが、麗華がいてくれたおかげで、母は楽しそうでした。ありがたいですね。麗華は母が作ったちゃんちゃんこを大切にしてくれていて、いまだに冬になると着ているんですよ。私なんて、母から何かをもらったことはないですけど(笑)。人の縁というのは面白いものだな、と思います

両親が亡くなり、2011年9月には、日立高崎女子ソフトボール部設立の立役者で、私を監督に誘ってくれた元工場長の佐々木さんも他界されました。
日立高崎元工場長の佐々木威さんと並ぶ宇津木さん
宇津木さん:監督就任を躊躇っていた私の心を動かしたのは、佐々木さんの「チームを作ったのは、社員の心をひとつにするため。試合に勝ってても負けても一生懸命プレーをし、苦しい時もみんなで頑張ろうと社員が思ってくれるようなチームに育ててほしい」という言葉でした。

監督就任後しばらくして聞いた話ですが、女性監督の採用に会社上層部全員が反対する中、佐々木さんだけが私を推してくれたそうです。就任後は一貫して私を応援してくれました。人間味にあふれ、父亡き後、心のよりどころだった佐々木さんが旅立った時、いよいよひとり立ちをしなければと覚悟を決めました。

自分のことは自分で守れる。でも、人のことは祈ることしかできない

−−亡くなった大切な方たちの存在を日常の中で感じることはありますか。

宇津木さん:いつも、ですよ。私は特定の宗教を信じているわけではないけれど、妙子という名前はお寺の住職さんがつけてくれました。そんなこともあってか、心の中で手を合わせるというのは物心ついたころからやっていたんです。

今朝も両親と夫のお父さんの写真の前にお水を置いて、手を合わせてきました。毎朝、その日お会いする方や、身近な人たちの名前を全部言って「出会いに感謝して頑張ります。みんなを守ってね」と言うんです。で、夜は布団の中で「今日はこんな出会いがありました」と仏様に報告をして、反省会もします。「ちょっと言い過ぎたかな」とかね。

日々たくさんの人と関わるから、名前を言うのも結構大変なんですよ(笑)。大学のチームやビックカメラ高崎の指導もしていますし、ソフトボール・ドリーム(2011年に設立されたソフトボールの普及を目的とするNPO法人。宇津木さんは理事長を務めている)の活動で子どもたちとも会うしね。

お墓まいりもよく行きますよ。掃除をしてお花とお水を供え、手を合わせます。指導をしているチームの試合が近かったりすると「勝てますように。守ってね」ってお願いごともしたりして。

−−ご自身のことは「守ってね」とおっしゃらないんですか?

宇津木さん:選手時代と違って見守る側ですから、今は。それに、自分のことは自分で守れるじゃないですか。失敗も成功も自分の責任。でも、自分以外のことは「守ってね」と仏様にお願いすることくらいしかできないですからね。

−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

宇津木さん:「丁度いい!!」という言葉はどうでしょうか。私の場合はね、「生きることは自分との闘い」と言っていつも闘ってきました。小学生のころから日記を書き続けていて、内容はくだらないことばかりですが、学生時代の日記には「妙子、がんばれ」と自分を叱咤激励する言葉が並んでいます。もっと楽に生きたらいいのにと思う時もありますが、だからこそ、頑張れた。これが私なんでしょうね。

でも先日、一緒にソフトボールの普及活動を頑張ってきた仲間が亡くなった時に、奥様が「道半ばではあったけれど、夫にとっては丁度いい人生だった」とおっしゃって、その言葉が心に響いたんです。彼はそれこそバリバリの仕事人間でしたが、懸命に生き、やるだけのことはやって、「丁度いい人生だった」と。
宇津木さん:「丁度いい」という言葉は、「適当」とか「力を抜く」という意味もあるし、進退のタイミングの良さを表すのに使われたりもする。包み込むようないい言葉だなと、この時初めて感じたんです。

−−肩の力を抜いてくれる言葉ですね。

宇津木さん:そう思います。だから、頑張っている皆さんに贈りたいです。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
そうめんです。噛まずに済みますからね(笑)。そもそも、私は食にこだわりがないんです。実際、普段の食事は朝も晩もそうめん。冬の晩ごはんは煮麺で、半分残した素麺を翌朝使ってちょっと具だくさんの味噌汁にするのが定番です。夏なら、冷たいそうめんにきゅうりとトマトがあれば何もいらない。いくら働いてもそれだけで満足なんですから、我ながら安上がりな人間だなと思います。

フライパンでそうめん

「そうめんは好きだけど、大鍋でゆでるのが結構面倒」という人も少なくないはず。そんな皆さんにご紹介したいのが、「フライパンでそうめん」。ポイントはそうめんを「ゆでない」こと。深めのフライパンに湯を沸かし、そうめんを入れて10秒かき混ぜた後、火を消して蓋をして3分蒸らす。ざるにあげて湯を切り、流水でもみ洗いしてぬめりを落として、水気をよく切ったらできあがり。少量の水で作れ、吹きこぼれの心配もないのがうれしいところ。ただし、そうめんを入れ過ぎるとぬめりが出るので、手持ちのフライパンに合わせて量を調節したい。

プロフィール

女子ソフトボール元日本代表監督/宇津木妙子さん

【誕生日】1953年4月6日
【経歴】埼玉県比企郡川島町出身。中学1年生からソフトボールを始め、ユニチカ垂井ソフトボール部で内野手として13年間活躍。引退後、ジュニア日本代表監督を経て86年より日立高崎(現・ビックカメラ女子ソフトボール高崎)監督。シドニー五輪、アテネ五輪で日本代表監督を務めた。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)