「4人の個性が紡いだハーモニー」ボニージャックス・玉田元康さん【インタビュー前編】~日々摘花 第56回~
コラム
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昭和を代表するコーラスグループ・ボニージャックス。リーダー兼バス担当の玉田元康さんは、90歳の今も現役の歌手として活躍しています。グループ結成から66年、玉田さんが早稲田大学グリークラブで出会った仲間たちと歩んできた音楽人生は、喜びと別れの歴史でもありました。前編では、今は亡きオリジナルメンバーとの思い出、そして別れについて伺います。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
早大の合唱仲間4人でグループ結成
−−ボニージャックスは1958年、早稲田大学グリークラブの西脇久夫さん(トップテナー)、鹿嶌武臣さん(バリトン)、大町正人さん(セカンドテナー)、そして玉田さん(バス)の4人で結成されました。早稲田大学グリークラブは約120年の歴史を持つ男声合唱団で、当時は100名を超える学生が所属していたとか。
玉田さん:入学式で早稲田大学グリークラブが校歌を歌ってくれましてね。歌声に圧倒され、その日のうちに入部しました。パート練習後、初めて4パート揃って歌った瞬間の、ゾクッとするような感覚は今も忘れられません。
ボニージャックスを結成したのは、歌手の登竜門として知られていたラジオ番組「青春ジャズ大学」に出演し、審査員の笈田敏夫さんに「プロにならないか」と言っていただいたのがきっかけです。グループのリーダーは僕ですが、理由は単純に「一番年次が上だったから」。僕はみんなを引っ張っていく性格ではなく、「まあまあリーダー」なんです。鹿嶌も西脇も大町も、結構自己主張が強くて。側で「まあまあ」となだめるのが僕の役回りでした。
もうね、あの3人は「どうでもいいじゃないか」というようなことでしょっちゅうやり合うんですよ。音楽のことならまだしも、食事中に「お前の海老、俺より1本多い」とか。でも、引きずることはなかったですね。スタッフが解散を心配するほどのけんかをしても、みんな翌日にはケロっとしていました。
玉田さん:入学式で早稲田大学グリークラブが校歌を歌ってくれましてね。歌声に圧倒され、その日のうちに入部しました。パート練習後、初めて4パート揃って歌った瞬間の、ゾクッとするような感覚は今も忘れられません。
ボニージャックスを結成したのは、歌手の登竜門として知られていたラジオ番組「青春ジャズ大学」に出演し、審査員の笈田敏夫さんに「プロにならないか」と言っていただいたのがきっかけです。グループのリーダーは僕ですが、理由は単純に「一番年次が上だったから」。僕はみんなを引っ張っていく性格ではなく、「まあまあリーダー」なんです。鹿嶌も西脇も大町も、結構自己主張が強くて。側で「まあまあ」となだめるのが僕の役回りでした。
もうね、あの3人は「どうでもいいじゃないか」というようなことでしょっちゅうやり合うんですよ。音楽のことならまだしも、食事中に「お前の海老、俺より1本多い」とか。でも、引きずることはなかったですね。スタッフが解散を心配するほどのけんかをしても、みんな翌日にはケロっとしていました。
−−「けんかするほど仲がいい」という言葉を思い出します。
玉田さん:おたがい、言いたいことは言えていたかもしれません。僕も若いころに旅先で酔っ払って、西脇とちょっとした口論をしたことがありました。それを鹿嶌が聞いていて、後々まで「玉田は酒癖が悪い」と言われたものです(笑)。
大町がリタイアした後、2003年からメンバーに加わった吉田(セカンドテナー担当の吉田秀行さん)は真面目。僕たちより30歳ほど若いこともあってか控え目で、鹿嶌はよく吉田のことを「遠慮が趣味」と皆さんに紹介していました。ボニージャックスが長く続いてきたのは、性格も声質も全く違う4人で歩むからこその面白さが大きかったと思います。
ボニージャックスの音楽を楽器の演奏に例えれば、弦楽四重奏よりも木管四重奏に近いかもしれません。均質で繊細な表現が特徴の弦楽四重奏に対し、木管四重奏はオーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットといった音域や音色に幅のある楽器が紡ぐ個性的な響きが特徴です。時にはぶつかりながらも、ひびき合い、ボニージャックスらしいハーモニーを作り上げていく。ただそれが楽しくて、気づけば60年あまりの時が経ちました。
玉田さん:おたがい、言いたいことは言えていたかもしれません。僕も若いころに旅先で酔っ払って、西脇とちょっとした口論をしたことがありました。それを鹿嶌が聞いていて、後々まで「玉田は酒癖が悪い」と言われたものです(笑)。
大町がリタイアした後、2003年からメンバーに加わった吉田(セカンドテナー担当の吉田秀行さん)は真面目。僕たちより30歳ほど若いこともあってか控え目で、鹿嶌はよく吉田のことを「遠慮が趣味」と皆さんに紹介していました。ボニージャックスが長く続いてきたのは、性格も声質も全く違う4人で歩むからこその面白さが大きかったと思います。
ボニージャックスの音楽を楽器の演奏に例えれば、弦楽四重奏よりも木管四重奏に近いかもしれません。均質で繊細な表現が特徴の弦楽四重奏に対し、木管四重奏はオーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットといった音域や音色に幅のある楽器が紡ぐ個性的な響きが特徴です。時にはぶつかりながらも、ひびき合い、ボニージャックスらしいハーモニーを作り上げていく。ただそれが楽しくて、気づけば60年あまりの時が経ちました。
メンバーの他界で解散も考えたけれど……
−−長い音楽生活の過程では、メンバーとのお別れも経験されましたね。大町さんは2003年にグループを離れ、2011年7年に他界。西脇さんは2021年8月、鹿嶌さんは2024年9月に亡くなりました。
玉田さん:大町はグループを離れた後に少し疎遠になっていましたが、最後は鹿嶌と一緒に見舞いに行きました。ただ、もう意識がなくて話すことはできませんでした。西脇は肺がんで亡くなり、2021年7月に宮崎県で開催された「童謡の祭典」が最後のコンサートになりました。
実はこの時、解散も考えました。というのも、ボニージャックスの所属事務所は西脇が社長を務めていて、経営面は彼が担ってくれていました。蓋を開けてみたら事務所の経営状況が深刻だったりして、僕たちだけではとても立ち行かないと考えたんです。
ところが、かねてご縁のあった日本国際童謡館の大庭照子館長と高田真理理事長に西脇の訃報を電話でお伝えしたところ、「やめちゃダメですよ」と励ましてくださって。何から何までお世話になり、最終的にはマネジメントも手伝ってくださることになって、活動を続けられることになりました。本当にありがたかったです。
鹿嶌もとても喜んで、以前にも増して張り切って歌っていました。でも、2024年7月5日に埼玉で行われた「鹿嶌武臣の世界」に出演して数週間経ったころ、急に体調を崩して入院。9月に脳幹出血で逝ってしまいました。今の僕と同じ90歳でした。
玉田さん:大町はグループを離れた後に少し疎遠になっていましたが、最後は鹿嶌と一緒に見舞いに行きました。ただ、もう意識がなくて話すことはできませんでした。西脇は肺がんで亡くなり、2021年7月に宮崎県で開催された「童謡の祭典」が最後のコンサートになりました。
実はこの時、解散も考えました。というのも、ボニージャックスの所属事務所は西脇が社長を務めていて、経営面は彼が担ってくれていました。蓋を開けてみたら事務所の経営状況が深刻だったりして、僕たちだけではとても立ち行かないと考えたんです。
ところが、かねてご縁のあった日本国際童謡館の大庭照子館長と高田真理理事長に西脇の訃報を電話でお伝えしたところ、「やめちゃダメですよ」と励ましてくださって。何から何までお世話になり、最終的にはマネジメントも手伝ってくださることになって、活動を続けられることになりました。本当にありがたかったです。
鹿嶌もとても喜んで、以前にも増して張り切って歌っていました。でも、2024年7月5日に埼玉で行われた「鹿嶌武臣の世界」に出演して数週間経ったころ、急に体調を崩して入院。9月に脳幹出血で逝ってしまいました。今の僕と同じ90歳でした。
盟友の最後の電話、病室に響いた『小さい秋…』
−−鹿嶌さんは2001年に大動脈瘤、2017年には第4ステージの上顎がんを患って手術を受けていたそうですね。
玉田さん:腰痛があってコルセットもしていました。晩年の鹿嶌は「病気のデパート」でしたね。上顎がんの手術では骨ごとがんを削り、晩年はずっと、空洞を埋めるためのプラスチックを口の中に入れた状態で歌っていました。
上顎がんの手術直後は歌うのはおろか話すこともままならず、つらかったと思います。でも、ちょっと回復してくると、3人だけでやるはずだったコンサートに自分も同行すると言い出して。最初は「リハビリがわりにトークだけやる」という話だったのですが、西脇と吉田と僕が練習で歌うのを聞いて、「やっぱり、お前らだけじゃダメだ」と(笑)。途中で歌いはじめ、「しゃべるより歌う方がラクだわ」なんて言っていました。三度の飯より歌うのが好きで、体調を顧りみずステージに立とうとするので、マネージャーが心配をして口喧嘩になることもしょっちゅうでした。
玉田さん:腰痛があってコルセットもしていました。晩年の鹿嶌は「病気のデパート」でしたね。上顎がんの手術では骨ごとがんを削り、晩年はずっと、空洞を埋めるためのプラスチックを口の中に入れた状態で歌っていました。
上顎がんの手術直後は歌うのはおろか話すこともままならず、つらかったと思います。でも、ちょっと回復してくると、3人だけでやるはずだったコンサートに自分も同行すると言い出して。最初は「リハビリがわりにトークだけやる」という話だったのですが、西脇と吉田と僕が練習で歌うのを聞いて、「やっぱり、お前らだけじゃダメだ」と(笑)。途中で歌いはじめ、「しゃべるより歌う方がラクだわ」なんて言っていました。三度の飯より歌うのが好きで、体調を顧りみずステージに立とうとするので、マネージャーが心配をして口喧嘩になることもしょっちゅうでした。
亡くなる数日前にね、鹿嶌が病室から私の携帯に電話をかけてきたんですよ。何かを話そうとしているんだけど、上顎のプラスチックを外しているから、全くわからない。ほわほわ、ほわほわ言っているんですよね。それが3分ぐらい続いたかな。最後に、「俺のことはいないものと思ってくれ」というようなことを絞り出すような声で言いました。
少し前にご家族から、「病室で『ちいさい秋みつけた』を歌って、お医者さんや看護師さんにほめてもらっていました」と鹿嶌の様子を聞き、回復を信じていたので、言葉を失いました。あれほど歌いたがって何とかして元気になろうとしていたのに、最後は「リハビリはもういい」と言ったそうです。
少し前にご家族から、「病室で『ちいさい秋みつけた』を歌って、お医者さんや看護師さんにほめてもらっていました」と鹿嶌の様子を聞き、回復を信じていたので、言葉を失いました。あれほど歌いたがって何とかして元気になろうとしていたのに、最後は「リハビリはもういい」と言ったそうです。
僕も人のことは言えませんが、鹿嶌は根っからの「歌バカ」でした。一日でも長く歌おうと日々を生きて、最後は力尽きて逝きました。
葬儀はご家族の希望で身内だけで執り行い、僕も参列させてもらいました。最後は焼き場でお骨を拾って。生前、鹿嶌は医師から骨が丈夫だとほめられていたそうですが、その言葉通りのしっかりしたお骨でね。骨壷に入り切らないほどでした。
−−ご葬儀から3カ月後、2024年12月には鹿嶌さんの追悼コンサートを開催されましたね。
玉田さん:会場の「彩の国さいたま芸術劇場映像ホール」は、鹿嶌の最後のステージとなった場所です。ファンの方々や西脇が立ち上げた「ボニージャックス合唱団」、音楽関係者などお世話になった皆さんをご招待し、大変賑やかな明るい会になりました。息子さんふたりと娘さん、孫、ひ孫までご家族も集まって、ステージで鹿嶌の思い出話をしましてね。私も知らなかった話がたくさん出てきて、「ええ、そんなこともあったのか」と驚きました。
西脇も鹿島も大町も、それぞれ逝くのは無念だったはずです。やっぱり、歌い続けたかったと思う。僕はもともと体が丈夫というわけではなかったけれど、なぜだか元気で。「お前は俺たちの分まで生きて、歌え」と彼らに言われているような気がしますね。何かちょっとかっこよくなっちゃって照れますが、それはそうしたいなと思っています。
葬儀はご家族の希望で身内だけで執り行い、僕も参列させてもらいました。最後は焼き場でお骨を拾って。生前、鹿嶌は医師から骨が丈夫だとほめられていたそうですが、その言葉通りのしっかりしたお骨でね。骨壷に入り切らないほどでした。
−−ご葬儀から3カ月後、2024年12月には鹿嶌さんの追悼コンサートを開催されましたね。
玉田さん:会場の「彩の国さいたま芸術劇場映像ホール」は、鹿嶌の最後のステージとなった場所です。ファンの方々や西脇が立ち上げた「ボニージャックス合唱団」、音楽関係者などお世話になった皆さんをご招待し、大変賑やかな明るい会になりました。息子さんふたりと娘さん、孫、ひ孫までご家族も集まって、ステージで鹿嶌の思い出話をしましてね。私も知らなかった話がたくさん出てきて、「ええ、そんなこともあったのか」と驚きました。
西脇も鹿島も大町も、それぞれ逝くのは無念だったはずです。やっぱり、歌い続けたかったと思う。僕はもともと体が丈夫というわけではなかったけれど、なぜだか元気で。「お前は俺たちの分まで生きて、歌え」と彼らに言われているような気がしますね。何かちょっとかっこよくなっちゃって照れますが、それはそうしたいなと思っています。
~EPISODE:追憶の旅路~
人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
そうですね、どこでしょう……。実は、僕の生まれは満州(現・中華人民共和国丹東市)で、終戦後に父の故郷の熊本県天草市に戻りました。満州から鴨緑江(おうりょくこう)を下って現在の韓国に入り、仁川(いんちょん)から引き揚げ船に乗ったんです。何日も野宿をしましたし、38度線の検問で身ぐるみ剥がされ、途中で亡くなる人もいました。博多にたどり着いた時の感慨を今も覚えています。当時、僕は12歳でした。
デビュー後に中国に行く機会が数回あって、僕が満州生まれと知った現地の方から「行きたいなら、世話するよ」と言ってもらいましたが、やめておきました。もう一度訪れてみたいような、思い出のままにしておきたいような、複雑な気持ちがあります。
デビュー後に中国に行く機会が数回あって、僕が満州生まれと知った現地の方から「行きたいなら、世話するよ」と言ってもらいましたが、やめておきました。もう一度訪れてみたいような、思い出のままにしておきたいような、複雑な気持ちがあります。
韓国・仁川
満州からの引き揚げ時、玉田さん一家が命がけでたどり着き、日本への船に乗った韓国・仁川(仁川広域市)はソウルの西約28kmに位置する港湾都市。2001年に開港した仁川国際空港は電車で1時間ほどでソウル市内にアクセスでき、近年は日本からの観光客も増えている。代表的な観光スポットは、韓国最古の西洋式公園「自由公園」、ジャージャー麺発祥の地とされる「チャイナタウン」など。「愛の不時着」、「梨泰院クラス」といった人気ドラマのロケ地でもあり、「聖地巡礼」に訪れる人も多い。
プロフィール
歌手/玉田元康さん(ボニージャックス Bonny Jacks )
【誕生日】1935年8月19日
【経歴】熊本県天草出身。1958 年のクリスマスイブ、早稲田大学グリークラブの仲間と結成した「ボニージャックス」のベースとしてプロデビュー。NHKを中心にレギュラー番組で活躍し、現在でも「みんなのうた」では最多歌唱を誇る。NHK紅白歌合戦3回出演。第4回日本レコード大賞童謡賞受賞。現在はNPO 法人日本国際童謡館の所属コーラスグループとして全国でコンサートを展開中。メンバーの西脇久夫氏逝去に伴い「ボニージャックス合唱団常任」指揮者に就任。また稲城市内の老人保健施設で利用者の方々への歌の指導と介護補助の仕事を続けている。
【その他】2023 年新曲「わたしのほしいもの」の CD をボニージャックスデビュー65 周年記念盤として発表。2024 年人間学を学ぶ月刊誌致知「生涯現役」コーナーで紹介され、致知電子版でトップの再生回数を記録する。2025 年NPO法人日本国際童謡館館長の大庭照子の企画によりソロデビュー。小田原市童謡大使、東海林太郎音楽館名誉館長。
【誕生日】1935年8月19日
【経歴】熊本県天草出身。1958 年のクリスマスイブ、早稲田大学グリークラブの仲間と結成した「ボニージャックス」のベースとしてプロデビュー。NHKを中心にレギュラー番組で活躍し、現在でも「みんなのうた」では最多歌唱を誇る。NHK紅白歌合戦3回出演。第4回日本レコード大賞童謡賞受賞。現在はNPO 法人日本国際童謡館の所属コーラスグループとして全国でコンサートを展開中。メンバーの西脇久夫氏逝去に伴い「ボニージャックス合唱団常任」指揮者に就任。また稲城市内の老人保健施設で利用者の方々への歌の指導と介護補助の仕事を続けている。
【その他】2023 年新曲「わたしのほしいもの」の CD をボニージャックスデビュー65 周年記念盤として発表。2024 年人間学を学ぶ月刊誌致知「生涯現役」コーナーで紹介され、致知電子版でトップの再生回数を記録する。2025 年NPO法人日本国際童謡館館長の大庭照子の企画によりソロデビュー。小田原市童謡大使、東海林太郎音楽館名誉館長。
Information
2025年3月12日発売予定の玉田さんのソロデビューミニアルバム『男たちの子守り歌』(キングレコード)。表題曲「男たちの子守り歌(作詞:名村宏 作曲:西脇久夫)」のほか「愛その愛(作詞:やなせたかし 作曲:西脇久夫)」、「酒は涙か溜息か(作詞:髙橋掬太郎 作曲:古賀政男)」など6曲を収録。
(取材・文/泉 彩子 写真/刑部 友康)
インタビュー後編の公開は、2月28日(金)です。お楽しみに。