「出囃子に蘇る母の面影」林家木久扇さん【インタビュー後編】~日々摘花 第53回~

コラム
「出囃子に蘇る母の面影」林家木久扇さん【インタビュー後編】~日々摘花 第53回~
腸閉塞、胃がん、喉頭がんと3回大病を患ったにもかかわらず見事に復活し、87歳の今も活躍する林家木久扇さん。後編では木久扇さんの不屈の精神の源となった経験やお母様との思い出、そして、理想のエンディングについて伺いました。

空襲に比べたら、2度のがんなんも何でもない

−−木久扇さんは2000年に胃がん、2014年に喉頭がんと2回がんを経験されていますね。

木久扇さん胃がんの前には腸閉塞もやって、お腹を27センチ切りました。生還率50%の手術でした。胃がんの時はね、内視鏡検査でイボよりもっと小さい突起が見つかったんです。医師から「がんです。取りますか」と尋ねられ、その場で取ってくれるものと思って「じゃあ、取っちゃってください」と答えたら、入院して手術をすることに。転移のリスクを考えて、胃の3分の2がなくなってしまいました

喉頭がんはステージ2の初期で見つかって、5年生存率は86%。放射線治療で入院もせず40日で治ると言われ、本当に40日間でがんが消えました。ところが、声が出なくなったんです。声は噺家の命です。医師に聞いても、いつ声が出るようになるかは個人差があってわからないと言われ、あのときばかりは絶望的になりましたね。自分のことより、家族や弟子のことが気がかりでした

だけど、1週間後だったでしょうか。朝、お弟子さんが掃除に来て「おはようございます」と丁寧に頭を下げたんです。その時に僕が「おはよう」って返事をしたんですよ。すると、横にいたうちのおかみさんが「お父さん、今声が出たわよね」と声を上げました。「ああ、声が出た」と答えたら、おかみさんが「私うれしい。結婚してから、こんなにうれしかったことないわよ」って涙ぐんでいました
−−木久扇さんのお話しぶりで、私まで涙が出そうです。放射線治療が効いて良かったですね。

木久扇さん:本当にそうです。がんを経験して知りましたが、がんの治療法はいくつもあって、「こうすれば治る」というものはないんです。僕はとにかく声を守りたくて放射線治療を選びましたが、やってみなければ効くかどうかわかりませんでした。ただ、「絶対に治る」とは思っていました。60年「バカ」を看板にしてきたくらいですから、私は楽観的なんでしょうね

それから、僕が結構したたかなのは、東京大空襲を経験しているからだと思います。小学校1年生の時でした。300機のB29がやってきて下町一帯を焼き、ひと晩で10万人もの人が亡くなりました。僕は直前に母の親戚の家がある高円寺にいて命拾いしましたが、日本橋の実家は焼け、学童疎開に行かなかった同じ小学校の生徒たちがたくさん亡くなりました

あのころは毎日のように空襲警報が鳴って、その度におばあちゃんの手を引いて防空壕に逃げ込みました。幼心に「僕はここで死ぬのかな」と思いましたね​。それは子どもにとって大きな衝撃でした。「空襲に比べたら、こんなのは何でもない」という思いがいつもあるんです。大きな病気をした時もそうでした。

布団に安置された母の背中をさすり続けた夜

−−「空襲に比べたら、何でもない」とおっしゃいましたが、戦争の影響でご両親が離婚されて少年時代はご苦労も多かったようですね。

木久扇さん:離婚後、母は女手ひとつで僕と妹を育てました。僕は長男なので、家にお金を入れなければと新聞配達をしたり、遠足で空き瓶を集めて駅前の酒屋さんに売りに行ったり。映画館でアイスキャンディーを売ったこともあります。でも、楽しかったですよ。苦労したのは、母です
木久扇さん:母は浅草の生まれで、実家は花柳界の人たちの縫い物をするお針子さんをやっていました。だから、母の名前は縫子。芸事の世界が身近にある環境で育って、母自身も小唄の師匠でした。雑貨問屋を営んでいた父に嫁いで僕と妹ふたりが生まれ、戦争が激しくなるまでは暮らしぶりも良かったようです。

ところが、離婚後の母は細々と雑貨店をやりながら、駅で新聞や宝くじを売ったりして暮らす日々でしたから、つらかったと思います。だけど、そんな素振りは見せませんでした。まあ、母は大らかな性格でね。私がせっかく就職できた会社を辞めた時も、漫画家から落語家になった時も「お兄ちゃん、また初めからだね」と言ってくれました。どんな時も僕が前向きでやって来られたのは、母の影響も大きいと思います
5歳のころの木久扇さんとお母様
−−お母様、木久扇さんのご活躍を喜んでいらっしゃったでしょうね。

木久扇さん:喜ぶどころか、「笑点」で座布団をもらえないバカな息子にハラハラしていたようです。晩年の母は我が家の近くにアパートを借りて住んでいましたから、時々会って話せたのがせめてもの親孝行だったでしょうか。

母は1989年に76歳で亡くなりました。母の危篤を妹が知らせてくれた時、僕は仕事中で、終わってから駆けつけましたが、すでに息を引き取っていました。その日の晩は、白い布団に安置された母の隣に寝て、ずっと背中をさすっていました。母がなんか声をかけてくれるんじゃないかなと思ってね。「おふくろ、大変だったね」と言いながら、背中をさすり続けました。

母が亡くなってずいぶん経ちますが、今も近くにいる気がします。寄席で噺家が高座に上る時にかかる、出囃子ってあるでしょう。日本橋で暮らしていた幼いころ、母は三味線を教えていましたから、うちはいつも三味線の音がしていたんです。だから、寄席に出演すると本当にほっとするんですよね。ああ、懐かしいなと思って。

最期は五代目小さん師匠のように

−−寄席と言えば、木久扇さんは『笑点』こそご卒業されましたが、寄席や落語会、ご著書の執筆と引っ張りだこです。

木久扇さん:僕が『笑点』を55年間続けられたのは、うちのおかみさんが後ろでしっかりと支えてくれたから。『笑点』を卒業したら少し時間ができるだろうから、「これからは、おかみさん孝行を」と思っていましたが、なかなかそうはいかないですね。

−−世間が許してくれません。

木久扇さん:そうみたいです。55年「バカ」をやっていたから、仕事が来ちゃう。寄席以外の出演も月10本はあるんですよ。ほら、僕が出るって言うとお客さんが増えるから(笑)。これはしょうがないですね。
−−ところで、最近は「終活」という言葉も一般的になりましたが、木久扇さんは「終活」についてどのようにお考えですか。

木久扇さん:自分の身辺整理をして亡くなる時に後悔のないように、ということなんでしょうけど、僕にはよくわかりません。せっかくの人生、死んだ後のことを考えるより、今を楽しまないと勿体無いじゃないですか。生きるっていうのは、自分で区切りをつけるものではないと思っています。

僕の理想は、他界された五代目柳家小さん師匠の亡くなり方です。小さん師匠はすでに一線から退いてはいましたが、まだまだお元気で食欲旺盛でした。亡くなる前の晩も、ひいきのお寿司屋さんからちらし寿司の出前を取ってお腹いっぱい食べてお休みになったそうです。で、翌朝なかなか起きて来ないからご長女が見に行ったら、亡くなっていたんです

−−お寿司をたらふく食べて。
木久扇さん:そう。好きなお寿司を食べて、死んじゃった。いや、いいなと思って

「お父さん、なかなか起きて来ないわね。あんた、起こしていらっしゃいよ」「あの…。起こしに行ったら、師匠が死んでますけど」「あら、亡くなってるの?」って、いつの間にかいなくなるのが理想です。

−−落語を聞かせていただいているような、贅沢な時間をありがとうございました。最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

木久扇さん:僕はよく色紙に「よく笑うひと 人生の達人」と書くんです。元気の秘訣を聞かれることがありますが、やはり毎日を楽しむこと。そのためには、自分の好きなものを見つけるのが大切じゃないでしょうか。僕が一番好きなのはね、入金(笑)。入金は何度あってもいいです。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
1989年にスパインのバルセロナにラーメン店を開きました。その名も「カーサ・デ・ボスケ・キク(木久ちゃん館)」。当時のバルセロナにラーメン店なんてありませんでしたし、ちょうどバルセロナオリンピックの2年前でしたから、注目されましてね。オープン時は大盛況だったのですが、オリンピックが終わったら鳴かず飛ばず。1年ほどで撤退しました。損失は約7000万円。早い話が失敗です。でも、失敗をネタにして高座で十分稼がせていただいたし、スペインでやっている間はわくわくドキドキ、楽しかった。あの店がどうなっているか、見に行きたいんです。

木久ちゃん館

木久扇さんがかつて出店したラーメン店があったのは、バルセロナ最大のターミナル駅・サンツ駅の近く。「先日友だちがスペイン旅行に行った時に、跡地を見てきてもらったんです。場所を教えてね。そうしたら、僕がやっていた時の店構えがそのまんま残っていました。別のオーナーがラーメン店をやっていて、餃子も焼きそばもあってね。やっているんだ、って驚きました」と木久扇さん。
1989年、バルセロナに「木久ちゃん館」を開業した当時の写真

プロフィール

落語家/林家木久扇さん

【誕生日】1937年10月19日
【経歴】東京・日本橋生まれ。高校卒業後、食品会社、漫画家・清水崑の書生を経て1960年、三代目桂三木助に入門。翌年、八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。真打ち昇進。2007年、林家木久扇に改名。1969年から2024年3月まで「笑点」のレギュラーメンバーを務めた。イラスト制作やラーメンのプロデュースも手がけ、著書も多数。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)