「一卵性親子の新生活」松島トモ子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第48回~

コラム
「一卵性親子の新生活」松島トモ子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第48回~
5年5カ月自宅介護をしたお母様を2021年に看取った松島トモ子さん。後編ではお母様のお葬式への思いや、70代後半からの新たなチャレンジについて伺いました。

お葬式は立派に。万事控え目だった母の最後の願い

松島さんのお母様の祭壇
−−お母様のお通夜には約200名の方が参列されたそうですね。

松島さん:新型コロナウイルス感染症の影響が色濃い時期でしたから、親族だけのお葬式にした方が良いのでは、という意見も周囲にありました。でも、お葬式をしっかりとやるのは母との約束でした。万事控え目だった母が、「お葬式だけは立派に出してほしい」と言っていたんです。長寿で亡くなると友人や知人がすでに他界していて、親族だけでお葬式を執り行うことも多いものですが、母は自分のお友達がふっと消えるようにいなくなり、別れを告げられなかったことにさみしさを感じていたようです。

母のお葬式は知人の葬儀会社にお願いしました。私たち親子のことをよくご存知の方で、20年以上前から「どちらが先立っても、お葬式のことはお願いね」と母と一緒に頼んでいたんです。

それにしても、家族が亡くなった直後があんなに慌ただしいものとは知りませんでした。隣で寝ていた母が冷たくなっていることに気づいて飛び起きたのが朝の6時過ぎで、訪問医の先生から「お亡くなりになりました」と告げられたのが9時8分。涙に暮れる間もなく葬儀会社の皆さんがいらっしゃって、お昼前にはお葬式の日程や会場について打ち合わせが始まりました。

お葬式の日程は仕事の日を避けて決めたつもりでしたが、やはり気が動転していたのかもしれません。大事な仕事が入っていた日にお通夜をやることにしてしまい、事務所のスタッフに叱られました。しっかり者の母がいてくれたら、こんなことはなかったのに……。そう考えると、葬儀会社を母と一緒に決めておくことができたのは良かったなと思います。

数十年後に私を救った、永六輔さんの言葉

−−ブログなどではお母様の他界を気丈に報告されていましたが、公私ともに人生を一緒に歩んでこられたお母様を亡くしたさみしさは、相当なものだったのではないでしょうか。

松島さん:そうですね。介護で日々家事に追われていた時期は、正直なところ、母が亡くなったら万歳三唱だと思っていました。自由な時間ができたら、あれもしたい、これもしたいって。ところが、実際に母がいなくなってみると、涙も出ないほど落ち込んで何もする気が起きませんでした​。

母のところに行きたい、とさえ思いました。この時心に蘇って来たのが、若いころに永六輔さんがおっしゃった「君が死んでひとりでも泣いてくれる人がいるのなら、自殺はダメだよ」という言葉です。当時の私はまだ若く、何もかもが順調でしたから、ピンと来ませんでしたが、何十年も経ってその言葉に救われました。

「泣いてくれる人が何人いるかはわからないけれど、ひとりはきっといる」と思ったら、力が湧いて来て。心と体を立て直そうと考え、まずは持病の変形性股関節症をしっかり治そうと決めました。私は母の介護が始まったころから股関節の痛みに悩まされ、ひどい時には数日歩けないこともありましたが、痛み止めを飲みながら我慢していたんです。手術には3週間ほど入院が必要と言われ、母の介護中にそんなに長く留守にするわけにはいかなかったからです。

病院を4カ所回ったりしてすったもんだはありましたが、母が亡くなった翌年、2022年3月に両足に人工股関節を入れる手術をして無事成功しました。今は、まるで新しい足がついているみたいに快適です。毎年夏に開催するコンサートでも、股関節を痛めていた間は歌とおしゃべりが中心だったのですが、手術後は大好きなダンスを踊れるようになったんですよ。

77歳にして“母と”初めのマンション暮らし

−−お引っ越しもされたそうですね。

松島さん:私は生後間もないころから東京・柿の木坂の一軒家に住んでいたのですが、母のいなくなった家はがらんとしてさみしく、孤独に苛まれました。危うく仕事にも支障が出そうになり、ここにいたらダメだと思い、引っ越すことにしたんです。長年お世話になっている診療内科の先生が「大きな契約を交わすのは、70代のうちにした方がいいですよ。80になると判断力が鈍るから」とおっしゃったことに背中を押されました。

77歳にして初めての引っ越しです。家の処分や土地の売却もあり、最初はどうしたらいいものやら何もわかりませんでしたが、何冊も本を読んで不動産や税金のことを勉強し、信頼できる専門家を探して相談しながら、2023年5月に賃貸マンションに移り住みました。

引っ越しは大手の引っ越し専門業者さんにお願いして荷造りから荷ほどきまで4日間、4人1組で来てくださったのですが、女性スタッフが多く、見事な仕事ぶりに驚かされました。荷造りと荷ほどきのチームのリーダは結構年配の女性だったのですが、テキパキとしていて細やかで。活躍されている姿を見て、励まされる思いでした。

この方が、引っ越し最終日に「マンションもいいものでございますよ。鍵ひとつで出入りできますから。こちらのお宅は窓から欅の大木が見えて、お隣はお庭。いい場所をお選びになりましたね」と言ってくださったんです。慣れ親しんだ家を離れる私の思いを汲み取ってくださったんでしょうね。お気持ちがありがたくて、後で号泣しました。
松島さん:あのとき引っ越しをしたことは、本当に良かったと思っています。初めて独り立ちしたような、ちょっとこう、何て言うんでしょうか。生まれ変わったような気持ちになりました。

−−新しいことに前向きに取り組んでいらっしゃる松島さんの姿を見て、亡きお母様も喜んでいらっしゃるのではと思います。今はお母様の存在をどのように感じていらっしゃいますか。

松島さん:実は、母の納骨をまだしていないんです。一般的には四十九日や一周忌に納骨をする方が多いそうですが、四十九日や一周忌って、割とすぐ来るんですよね。お寺のご住職に納骨についてご相談したら、「あなたがいいと思うまで、一緒にいらして構いません」とおっしゃったので、当時はまだ考えていませんでしたが、「引っ越しをしてもいいんでしょうか」とうかがったら、「どうぞ、どうぞ」と(笑)。だから、母の遺骨も一緒に引っ越して来ました。母も初めてのマンション暮らしです。

毎朝、起きたら必ず遺影に「おはようございます」と声をかけ、ことあるごとに話しかけていますから、離れている気がしません。

私と母は「一卵性親子」と呼ばれ、二人三脚で人生を歩みましたが、べったりとした関係ではありませんでした。例えば、私が18歳でアメリカの高校に留学した時のこと。当時は今のようにメールやビデオ電話で頻繁に連絡が取れるような時代ではなく、母も内心心配だったかも知れませんが、大賛成で送り出してくれ、再会した時の第一声は「元気そうね」のひと言だけでした。

帰国後、私の頭が生意気になっていたこともあり、周囲から「かわいいトモ子ちゃん」ばかりを求められている気がして葛藤していた時期も、アフリカでライオンとヒョウに咬まれた時も、母はいつも一歩距離を置いて私を見守っていました。親子の会話は敬語で、「親に口ごたえするなんて」という言葉が我が家では脈々と生きていましたし、今風の「仲良し親子」とは違います。でも、あの距離感が私と母の「仲良し」。今も変わらず仲が良いです。

−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

松島さん:「出逢い」はいかがでしょうか。別れもあれば「出逢い」もあります。人との別れに限らず、以前は確かにそこにあったものがなくなってしまうと、さみしいですし、不安も感じます。でも、無くしたものを惜しむより、新しいものを探し、楽しんでしまおうと思っています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
最後の食事は特別なものではなく、いつも通りがいいですね。定番メニューはバナナです。私は子どものころから食が細く、料理も苦手なのですが、バナナなら剥くだけで食べられますし、栄養満点。舞台などで忙しい時期はとくに重宝しています。

バナナを腐らせない方法

バナナの皮や果肉が黒ずんでしまい、食べられるかどうか悩んだことのある人は少なくないはず。バナナの皮に出てくる黒い斑点は「シュガースポット」と呼ばれ、熟成が進んだバナナに現れる、食べごろのサイン。また、冷蔵庫に入れたバナナの皮が変色するのは低温障害によるもので、果肉に影響がなければ食べても問題ない。一方、果肉が広範囲に変色し、不快なにおいやカビが生じている場合は腐敗していると考えられる。腐敗を防ぐには、風通しの良い常温で保存するのがおすすめ。「バナナハンガー」や「バナナラック」と呼ばれる専用のグッズもあるが、バナナが山なりになるよう伏せて置いておくだけでも腐りにくくなる。皮が黒ずみやすくなるが、冷蔵保存もひとつの手だ。

プロフィール

女優/松島トモ子さん

【誕生日】1945年7月10日
【経歴】東京都出身。旧満州(現中国東北部)生まれ。4歳で映画界入りし、人気子役として嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」など約80本の映画に主演。また、雑誌「少女」の表紙を10年間一人で務める。現在はTVのバラエティや講演、コンサートなど幅広く活躍している。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)