「父は許してくれるだろうか」俳優・八名信夫さん【インタビュー前編】~日々摘花 第54回~

コラム
「父は許してくれるだろうか」俳優・八名信夫さん【インタビュー前編】~日々摘花 第54回~
多くの映画やドラマで名悪役として活躍し、89歳の現在もマフィア映画さながらの帽子とスーツをキリリと着こなす八名信夫さん。実は元プロ野球選手で、20歳だった1956年に東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。投手として頭角を現したものの、3年目に試合中のけがで引退を余儀なくされ、俳優に転向した経歴を持ちます。

前編では愛息子のプロ野球での活躍を喜び、「俳優・八名信夫」の誕生を知らぬまま亡くなったお父様との思い出と別れについて伺いました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「焼け野原の岡山に娯楽を」と劇場を作った父

−−八名さんは岡山県ご出身です。岡山の中心街で生まれ育ったそうですね。

八名さん親父が鉄道省(現JR)岡山駅の助役だったから、岡山空襲の日(1945年6月29日)までは岡山駅前の鉄道官舎に住んでいたんだ。蒸気機関車の汽笛の音が子守歌がわりだった​。俺は3人きょうだいの末っ子で、上には兄と姉。後で聞いた話だけど、実の母は俺が3歳の時に肺結核を患ったために籍を抜いて家を出たらしい。翌年に父が再婚し、俺たちを育ててくれたおふくろはとてもいい人だったけれど、幼心に何かを感じていたんだな。最初は「お母さん」と呼びづらかった。
八名さん:岡山空襲があったのは、俺が9歳の時。明け方、ドーンという音がして、「空襲だ! 早う逃げえ」という親父の声で飛び起きた。親父は「お前たちは後楽園へ逃げえ! ワシは駅に行く!」と言い残して駅を守りに走り、残されたおふくろと姉、俺は火の海の中を手と手を握り合って逃げた。どこかでふたりとはぐれて、気絶したんだろうな。気づいたら田んぼの溝にはまっていた。

田んぼから助け出してくれたのは、消防団の人たち。「小学校で炊き出しをしているから、行け」と言われ、やっとのことでたどり着くと、長い列ができていた。あたりを見回すとおふくろと姉が向こうの方に見えたけれど、列を離れようとはしなかった。並んでなきゃ、握り飯をもらえなくなると思ったんだ。
八名さん:小さな握り飯をもらって頬張りながらふたりのところに駆け寄ると、おふくろが「ノブちゃん、これ食べ」と自分の握り飯を半分くれて、泥だらけの俺を抱きしめてくれた。あの時からだな。何も考えずに「お母さん」と呼ぶようになったのは。

岡山空襲後、親父は駅を守るために岡山の中心街に残り、おふくろと姉、俺は平島村(当時)に疎開して終戦を迎えた。空襲で焼けた小学校が再建されて俺たちが市内に戻り、再び家族みんなで暮らせるようになったのは翌年の秋だった

親父は戦後間もなく国鉄(旧鉄道省)を辞め、洋画や芝居をかける劇場の経営を始めた。明治時代から岡山の中心街にあった「千歳座」の土地と権利を買って「チトセ劇場」を作ったんだ。焼け野原になってしまった岡山の人たちに何かで楽しんでほしいと思ったのかな。親父はもともと芝居が好きだったしね。
右から八名信夫さん、お父様、柳家金語楼さん。チトセ劇場にて

プロ野球選手から社長命令で役者へ

−−八名さんが俳優として活躍されているのは、お父様の影響もあったのではないでしょうか。

八名さん:活躍じゃないな。役者になったのは、やけくそ(笑)。俺は子どものころから野球に夢中で、岡山東商業高校時代は甲子園にも行った​。憧れていた明治大学野球部(中退)からプロ野球「東映フライヤーズ」に投手として入ったけれど、試合中に大けがを負って、プロ生活を断念しなければならなくなった。そんな時に東映の大川博社長(当時)から「映画の方に移れ」と通達があった。電話番でもするのかと思って本社に出向いたら、「役者として修業しろ」と言われて驚いたよ

で、ある日稽古場に行くよう言われて、六本木まで行ったら、なんと男たちが真っ黒のタイツを履いて鏡の前で踊っていた。「こんなことできるか。俺はプロ野球選手だったんだぞ」と思って、撮影所の所長に「役者を辞めて岡山に帰ります」と言ったよ。でも、東映への恩を仇で返すようなことはできないし、本当は帰りたくなかった。だから、「君の身元引受人は大川社長なんだ。君を辞めさせたら、私も辞めなければならないんだ」と引き止める所長に、黙って頭を下げたんだ。
プロ野球選手時代の八名さん
八名さん:話を元に戻すと、確かに俺の役者としての根っこには親父の影響もあるのかもしれないな。親父の劇場で洋画もよく観ていたしね。ただ、親父は「信夫、役者にはなるなよ」といつも言っていた。「チトセ劇場」で興業する芝居の舞台に立つのは、旅回りの一座の役者さんたちで、その暮らしぶりの大変さを知っていたから。

一方で、野球に関しては応援してくれた。息子を野球選手にしたいというよりは、戦後、野球に夢中になっている俺や友だちの姿を見て、思うところがあったのかもしれないな。学校にバックネットを作ったり、野球道具を寄付してくれたりもした。

プロ野球選手になった時は、明治大学を中退して入団したから「卒業してから入ったって遅くはないぞ。馬鹿者!」と平手打ちを食らわされたけれど、俺がプロ初登板で岡山球場のマウンドに立ち、5回までを0点で抑えて東映フライヤーズが勝った時は機嫌が良かったよ。興行師として岡山に試合を誘致したのはほかならぬ親父だったからね。

66年役者をやっている俺に、親父は何て言うだろう

−−プロ野球選手として順風満帆のスタートを切った八名さんですが、試合中の大けがをきっかけに入団4年目で引退。その後、俳優への道を歩まれました。俳優への転向について、お父様はどのようにおっしゃいましたか。

八名さん:それが、親父は俺が役者になる前に亡くなったんだ。プロ野球選手3年目の時だった。後楽園球場で試合後にマネージャーから「すぐに帰れ。親父さんが亡くなった」と言われて、寝台列車「瀬戸号」に飛び乗った。親父は元鉄道職員だから、「瀬戸号」の乗務員たちは親父が亡くなったことを知っていたよ
−−お父様は以前からご体調を崩されていたのですか。

八名さん:ちょうど東映フライヤーズと契約をしたころだった。兄から、親父が肝臓がんだと知らされたんだ。親父のがんはすでにかなり進行しているらしかった。それを聞くなり「ああ、しまった」と思ったんだ。

と言うのも……。こんな話、していいのかな。明治大学のころ、岡山に帰ったら、おふくろが泣いていたんだ。「どうしたんだ?」って聞いたら、「お父ちゃんが若い女性に家を買ったの。私はあの人だけは許せん」って。

俺が4歳の時に後妻に迎えられて以来、おふくろは親父に尽くし、俺たちを愛情深く育ててくれた。そのおふくろを悲しませるなんて、と俺は思った。だから、「任せておけ。俺が別れさせるから」とおふくろをなだめて、親父が通っていた家に乗り込んだんだ。岡山の西川という川の近くの、小さいけれど瀟洒な家だった。松が綺麗だったのを覚えている。
「こんちは」と玄関を開けたら、いきなり相手の女性が出てきた。「親父と別れてくれんかのう」学生帽を脱いで頭を下げたら、奥の部屋から麻雀をやっている親父の声が聞こえて来たんだ。親父がいたんだ
八名さん:その夜、家に帰ってきた親父は黙って火鉢に当たっていた。女性からその日のことは聞いていただろうけど、何も言わなかった。バツが悪かったんだろうな。火鉢にあたりながら、おでこをぽーん、ぽーんと叩いていた。

その姿がさみしそうで、心に残っていた。だから、親父が肝臓がんだと聞いた時、おふくろには申し訳ないけれど、「もう少しの間、黙って自由にさせてやればよかった」と思ったんだ。後日、親父にその女性のことをそれとなく聞くと「もう別れた」と軽く答えたから、安心した一方で少し胸が痛んだりもした。

ところが、親父、別れていなかったんだ。プロ野球入団後、オープン戦で川崎球場のマウンドからふとバックネット裏を見たら、親父がその女性と一緒にいてドキッとした。「何なんだ、親父は」と呆れたよ。でも、この時は親父の病状がかなり進んでいて「半年持たない」と医師から聞いていたから、もう俺は何も言えなかった
冷や冷やさせられることもあったけれど、親父はかっこいい人だった。あの空襲の時、俺たちと別れて駅に走った親父は駅舎や車両を必死で守り、岡山駅は翌日からいつも通りの運行ができたんだ。劇場を始めてからは「映画の日」を決めて、岡山の子どもたちに当時誰もが見られるわけではなかったディズニー映画やターザン映画を無料で観せたりもしていた。俳優になった後に、名だたる映画監督さんたちが「学生時代、チトセで洋画を観るのが楽しみだった」と話すのを聞いたこともある。あの時は、親父が頑張って良かったなあと思った。

親父に「役者にはなるなよ」と言われて育った俺が、89歳の今日まで役者をやっている。もし親父が生きていたら、何て言うだろう。「東京に残りたい」「社長命令」だからと役者になった俺を許してくれただろうか

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
子どものころの景色をもう一度見てみたいね。疎開入学した岡山市立平島小学校の当時の光景を今もよく覚えている。戦後、米軍のジープが校庭に入って来て、俺たちは一列に並ばされてアメリカ兵に頭からDDT(シラミ駆除のための殺虫剤)の粉を吹き付けられたんだ。そのアメリカ兵たちが休憩時間にキャッッチボールをしているのを見て、「何だあれは」と興味を持ってね。ボールなんて持っていないから、生のさつま芋を丸く切って芯にして周りに軍手を重ねて縫ったボールをおふくろに作ってもらって投げたのが、俺の初めてのキャッチボール。それからは野球に夢中だったな。

岡山「花かまくら 津高店」のわらび餅

写真協力:「花かまくら 津高店」
故郷を愛し、上京後70年を経た現在も度々岡山を訪れる八名さん。地元の友人との交流も続いており、地元のおいしいものを教えてもらうことも。小学校時代からの親友がお土産にくれた、わらび餅専門店「花かまくら 津高店」のわらび餅もそのひとつ。上質な本わらびを使用した甘みのあるわらび餅に、砂糖不使用の深煎りきな粉がたっぷりとかかっている。

プロフィール

俳優/八名信夫さん

【誕生日】1935年8月19日
【経歴】岡山県岡山市出身。明治大学から東映フライヤーズ(現日本ハム)に投手として入団。59年、怪我で引退。映画俳優となる。悪役として活躍し、83年悪役商会を結成。CM、講演、舞台と幅広く活躍。自主制作映画『おやじの釜めしと編みかけのセーター』『駄菓子屋小春』を全国で無料上映し、地震や洪水等の被災地を応援する活動を続けている。

Information

著書『悪役は口に苦し』
八名さんの近著『悪役は口に苦し』(小学館)。生い立ちから東映フライヤーズでのプロ野球選手生活、俳優になった経緯、「悪役商会」結成、講演や被災地の支援で全国各地の人々と触れ合う日々まで88年間の波乱万丈の人生を初めて綴ったエッセイ。『週刊ポスト』で連載されていた「悪役の履歴書」に加筆・修正し、単行本化された。
『悪役は口に苦し』八名信夫(小学館)
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)
インタビュー後編の公開は、12月27日(金)です。お楽しみに。