「祖母の鶴の一声で“川浜一のワル”に」俳優・松村雄基さん【インタビュー前編】~日々摘花 第47回~

コラム
「祖母の鶴の一声で“川浜一のワル”に」俳優・松村雄基さん【インタビュー前編】~日々摘花 第47回~
『不良少女と呼ばれて』、『スクール☆ウォーズ』など昭和の名作ドラマに出演して人気を博し、俳優として40年を超えるキャリアを歩んできた松村雄基さん。最近では、昭和と令和のギャップを描いた人気ドラマ『不適切にもほどがある!』に本人役で登場し、話題を集めました。

不良役のインパクトが忘れられませんが、現実の松村さんの生活はドラマとは異なりました。大正生まれのお祖母様に厳しく礼儀作法を教えられ、中学で生徒会長を務める“優等生”だった松村さんに、ふたりきりで暮らしたお祖母様との思い出と介護の日々について伺いました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

詩吟を教える厳格な祖母とのふたり暮らし

−−松村さんは物心ついたころからお祖母様とふたり暮らしだったそうですね。お祖母様は詩吟の先生で、礼儀作法にとても厳しかったとか。

松村さん:食事は正座で箸の上げ下ろしまで注意され、言葉遣いも丁寧でなければ叱られたものです。「人を呼び捨てにしてはいけません」と小学生のころに教えられ、友達のことも必ず「くん」や「さん」をつけて呼んでいました。字の書き方にも厳しかったです。少しでも曲がると新しい紙が出てきて、「相手に失礼だから、書き直しなさい」と言われました。
松村さん:子どものころはそれが当たり前でしたが、成長するにつれ、「うちは少し窮屈だな」とは感じました。でも、反発はしませんでした。両親と離れて暮らしていることによって僕が後ろ指を刺されないようにしっかりと育てたい、という祖母の思いを感じていたからです。

−−厳格なご家庭で育った松村さんが芸能界に入ったきっかけは何だったのでしょうか。

松村さん:中学2年生の時に同級生の女の子から突然電話があり、芸能界に興味はないかと聞かれたんです。後に僕が所属する芸能事務所の社長と彼女のお母さんが知り合いで、社長に会ってほしいという話でした。僕が彼女を知ったのはこの時が初めてでしたが、当時僕は生徒会長をしていたので、彼女の方は僕の名前を知っていて、名簿を見て連絡をしてきたようです。
芸能界には全く興味がなかったので断ろうとしたのですが、祖母に「無下にお断りするのは失礼だから、お会いするだけお会いしなさい」と諭されて。六本木の喫茶店で社長と面談することになったのですが、僕は芸能界のことを何ひとつ知りませんでしたから、好きな俳優や歌手の名前を聞かれても「わかりません」と答えるしかなく、社長との会話は全く弾みませんでした。

僕としてはそれで一件落着と思っていたのですが、翌日、僕が学校に行っている間に社長が訪ねて来て、祖母に「預からせてください」と直談判したそうです。学校から帰ったら、祖母に呼ばれ、「あの社長さんは信用できそうな人だから、やってみなさい。人生は長いのだから、やってみてダメならやめればいい」と言われました。当時の僕にとって祖母は全知全能の神のような存在。「はい」以外の返事は考えられず、祖母の鶴の一声で芸能界に入ることになったんです。

デビュー翌年・18歳から20年に渡る介護生活

−−その後はタレント育成コースで演技の基礎を学び、17歳の時にテレビドラマ『生徒諸君!』の沖田成利役でデビュー。『不良少女と呼ばれて』『スクール☆ウォーズ』など人気ドラマに次々と起用され、不良少年役の存在感で注目されました。

松村さん:あだ名で人を呼ぶことさえ祖母に「いけません」と言われて育ったのに、ドラマでは呼び捨てどころか暴言を吐き、人を殴ったり、蹴ったりしなければなりません。僕は子どものころから詩吟や剣舞を習い、立ち居振る舞いの一つひとつを教え込まれていたので、乱闘シーンなのに所作が丁寧になってしまったりして、監督に「お前、何やってるんだ。ケンカだぞ」と怒鳴られたこともありました。
−−お祖母様はドラマを観て何かおっしゃっていましたか。

松村さん:気恥ずかしいので聞いたことがありませんが、喜んでくれていたと思います。「川浜一のワル」と呼ばれるような役を自分の孫がやるとは想像していなかったはずですが、何も言いませんでした。

祖母が何も言わなかったのは、社長と祖母の信頼関係も影響していたと思います。社長は常々「お前が今あるのは、おばあちゃんのおかげだから」と僕に言い、毎月の僕の給料も、社長が家に来て給料袋を祖母に渡していました。社長が祖母を大切にしてくれることがありがたかったですね。​「仕事をしているのは僕なのに」と少し思ったりもしましたが(笑)。

祖母は僕がデビューした翌年に脳梗塞で倒れ、その後10年間、自宅介護を続けたのですが、その間も社長は毎月来てくれて、「松村、よく頑張っていますよ。今月もありがとうございました」と言って祖母に給料袋を渡し続けてくれました。
−−脳梗塞で倒れた当時、お祖母様は68歳だったそうですね。

松村さん:一命は取り留めたものの、後遺症で半身麻痺と言語障害が残り、ひとりではトイレに行くこともできなくなりました。祖母は自分を律し、人に恥をさらすことを良しとしない生き方をしてきた人ですから、つらかっただろうなと思います。

自宅介護ができたのは、近所に住む叔母一家の存在があったからです。僕が仕事で留守にしている間は近くに住む叔母に祖母を見てもらい、僕が帰るとバトンタッチという体制でした。21歳で引っ越すまでは風呂なしの都営アパートで暮らしていたので、住んでいた4階から祖母をおんぶして数百メートル先の銭湯に連れて行くこともありました。銭湯の入り口で叔母と待ち合わせて男湯と女湯にわかれて入り、出て来たら、僕が祖母をおぶって帰るんです。
松村さん:夜中に何度もトイレに行き、間に合わないこともしょっちゅうでした。孫とはいえ男性に介助されるのは祖母も抵抗があるでしょうから、尊厳は守ってあげたいと最初は思いましたが、そんなことを言っていられません。だんだん慣れて、日常の光景になりました。

僕は祖母譲りの「ええかっこしい」。でも……

−−お祖母様には認知症の症状もあったそうですね。

松村さん:脳梗塞で倒れて数年後から症状が出はじめ、ある日、僕の留守中に外に出て警察に保護される出来事がありました。これをきっかけに叔母一家と祖母、僕の5人で暮らしはじめたのですが、祖母の症状がどんどん進み、介護疲れからみんなの関係がぎくしゃくしはじめたんです。このままでは良くないと思って叔母と相談し、祖母に特別養護老人ホーム(特養)に入居してもらおうということになりました。

祖母を特養に入所させるかどうかというのは、僕にとってすごく重い選択でした。恩ある人を姥捨山に送ることと同じじゃないか、と自分を責めました。​でも、自宅で介護をするのはもう限界だと判断し、祖母には僕から話をしました。

この時の祖母は、認知症の症状が消えたかのように落ち着いていました。特養がどんな施設かを説明すると「うん、うん」とうなずき、「そこに行ってもらってもいいかな」と聞くと、「いいよ。おばあちゃん、行くよ」と笑顔で言いました。

祖母も本当は家族のもとを離れたくなかったはずです。一方、意識的にではありませんが、この時の僕は「いいよ」以外の答えを求めていませんでした。それはおそらく祖母にも伝わっていて、祖母は僕のために「いいよ。行くよ」と言ってくれたのだと思います。

だから、祖母の言葉を聞いて心を救われると同時に、その言葉を言わせてしまった自分が不甲斐なかったです。でも、あの時の祖母の笑顔は穏やかで優しく、すべてを包みこんでくれるような笑顔でした。
松村さん:祖母はそれから10年間特養で暮らし、2000年に88歳で眠るように亡くなりました。祖母が特養に入ってからも僕は地方での仕事がなければ3日に1度、叔母はほぼ毎日会いに行き、散歩や食事の介助をしました。

特養への入所についてはさんざん悩みましたが、医療や介護のプロフェッショナルの力はすごいですね。祖母のケアを安心して委ねることができたおかげで、家族がおたがいに優しく接することができるようになり、祖母の笑顔も増えました。最後まで家族みんなで祖母を囲むことができて良かった、と思っています。
−−それにしても、18歳から20年間も芸能界のお仕事と介護を両立され、大変でしたね。

松村さん:それが、全く大変とは思わなかったんです。若くて何も知らなくて、仕事も介護もただ目の前のことをがむしゃらにやるだけでした。結局、全て祖母の教えの影響ですが、親代わりの祖母のお世話をするのは僕にとって当たり前のことでしたし、役者の仕事もやるからには真剣に、と思っていました。

ただ、僕がそれをできたのは手を差し伸べてくださる人たちがいたからです。叔母一家がいなければ自宅介護はできませんでしたし、ご近所にもずいぶんお世話になりました。ケアマネージャーさんや理学療法士さん、看護師さんにも良くしていただきました。社長をはじめ事務所の理解がなければ、仕事も続けられませんでした。
松村さん:祖母は礼儀作法に厳しい人でしたが、形だけではなく、「自分が今あるのは人のおかげなのだから、相手を大切にしなさい」ということを教えてくれました。一方で、祖母は世間体を気にし、人に弱みを見せまいとする「ええかっこしい」でもありました。

僕もその血を受け継いでいるので、祖母の介護も「自分がやらなければ」という思いが強かったのですが、「ええかっこしい」を続けることはできませんでした。でも、それで良かった。にっちもさっちも行かなくなって、無意識にS.O.Sを発していたから、周りも見るに見かねて助けてくれたのだと思います。

だから皆さんも全てを自分で抱え込まず、困った時には弱音を吐き、助けを求めていただけたらと思います。僕の経験では助けを求めないうちは誰も来てくれませんでした。周囲もどう助けていいのかわからなかったのでしょう。

そうは言っても、相談できるところがなかなか見つからなかったりもするんですよね。でも、声を上げ続ければ、助けてくれる人は必ず現れます。助けを求めるのは恥ずかしいことではない、と声を大にしてお伝えしたいです

~EPISODE:癒しの隣に~

沈んだ気持ちを救ってくれた本・映画・音楽などがあれば教えてください。
麻倉未稀さんの「ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO」は自分が出演したドラマ(『スクール☆ウォーズ 泣き虫先生の7年戦争』)の主題歌ということもあって、聴くと活力が湧きますね。音楽は好きで、クラシックも聴きます。最近では、ミュージカル『クリスマス・キャロル 2023』公演がご縁で知り合ったピアニストの尾吉真人さんが演奏されたベートーヴェンの3大ピアノソナタがお気に入り。早朝の静かな時間に聴くと、心が洗われます。

『大映テレビ主題歌コレクション』

波乱万丈な物語とインパクトのある台詞で一世を風靡した、制作会社・大映テレビによる作品のうち、TBS作品の主題歌を集めた『大映テレビ主題歌コレクション〜TBS編〜』。『スクール☆ウォーズ 泣き虫先生の7年戦争』の「ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO」(麻倉未稀)をはじめ『スクール・ウォーズ2』の「FIRE」(丸山みゆき)、『ポニーテールはふり向かない』の「NEVER SAY GOOD-BYE」(小比類巻かほる)など11曲が収録されている。

プロフィール

俳優/松村雄基さん

【誕生日】1963年11月7日
【経歴】東京都出身。1980年にテレビドラマ『生徒諸君!』の沖田成利役でデビュー。以後数々のドラマや映画、舞台で活躍。剣道家、書家でもある。第17回東京書作展(東京新聞社主催)にて内閣総理大臣賞を受賞。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)