「厳父との“サシ飲み”」フリーアナウンサー・魚住りえさん【インタビュー前編】~日々摘花 第46回~

コラム
「厳父との“サシ飲み”」フリーアナウンサー・魚住りえさん【インタビュー前編】~日々摘花 第46回~
日本テレビのアナウンサーを経て、現在はフリーアナウンサーとして活躍している魚住りえさん。2012年に「魚住式スピーチメソッド」を立ち上げ、スピーチ・ボイスデザイナーとして話し方や声の出し方などの指導も行なっています。
前編では脳神経外科の医師であり、「患者さん第一で生きた」お父様との思い出と別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

脳外科医の父との会話はいつも敬語だった

−−お父様は脳神経外科医で、広島大学の教授や県立広島病院の院長など要職を歴任されたそうですね。

魚住さん: 父は趣味が仕事のような人で、患者さんが第一。後進の育成にも力を注ぎ、お弟子さんもたくさんいました。医師であることが父の人生の最優先事項だったので、母はもちろん、姉と兄、私の3人の子どもたちも、父をベストコンディションで仕事に送り出せるように、と気遣いながら暮らしていました。

私にとって父は先生のような存在だったように思います。父は「患者さんのお医者さん」で私たち家族だけのものではないという思いが幼いころからあって、気安く話しかけたり、抱きついて甘えたりしたことはありません。父との会話は常に敬語で、最後までそうでした。

父は思ったことをバシッと言う性格で、お弟子さんにはご迷惑もかけたのではと思います。半面、親分肌で情の深い人でもあったので、慕ってくださる方も多かったようです。私もよく怒鳴られました。だけど、父が私に言うことはいつも本当で、振り返ってみると、人生の節目節目で父に背中を押してもらった気がします。
魚住さん:高校時代にピアノをやめる決心をした時もそうでした。母はピアノ教師で、私は7歳上の姉(ピアニストの魚住恵さん)と一緒に3歳から母のレッスンを受け、ピアニストを目指していたのですが、中学生になったころから限界を感じるようになりました。ピアノは好きでしたが、優秀な姉との力量の差は明らかで、どんなに努力をしても自分がプロになれるとは思えなかったからです。

でも、物心ついた時からピアノ漬けの生活を送っていた私にとって、ピアノをやめるというのはものすごく勇気の要ること。ピアニストの夢を娘たちに託した母の思いも感じていましたから、「やめたい」とは口に出せず、毎日何時間もピアノの練習をしていました。
そんなある日。父がやってきて「仕事で疲れているのに、家で四六時中ピアノが鳴っていたら、わしは休まれへん。ピアノを弾くのは恵とお前のどっちかにしろ」「お前は恵より下手なんだから、続けてどないすんねん」と言い放ったんです。

ものすごくきつい物言いですよね。でも、父の言葉を聞いて「その通りです」と思いました。おかげで気持ちの整理がつき、「ピアノをやめて、ほかのことをやりたい」と母に言いました。

−−その後は高校の放送部に入って部活に打ち込み、NHK杯全国高校放送コンテストの朗読部門で約5000人中3位に入賞されたとか。

魚住さん:子どものころから朗読が好きでしたし、音で表現をしたいという思いがあったので、放送部に入りました。ピアノで挫折感を味わった後だったこともあり、NHKのコンテストで入賞したのはすごくうれしかったです。自分の居場所を見つけた気がして、アナウンサーを目指すきっかけにもなりました。

肩は凝るけど嫌いじゃない、父との上京はしご酒

−−大学進学で上京し、卒業後はアナウンサーとして日本テレビに就職。進路について、お父様は何かおっしゃっていましたか。

魚住さん:父が子どもたちの進路に口を出すことはありませんでした。少年時代の父は政治家を志していましたが、医師の家系に生まれ、医師にならざるを得なかったので、子どもたちには自由に生きてほしいという思いがあったようです。

日本テレビのアナウンサーになることを報告した時も、「ほお、そうか」と言ったくらいでした。ただ、私が東京に行ってしまうことが、さみしかったようです。私にはそんな素振りを全く見せなかったのですが、「お父さん、泣いていたよ」と後に母から聞きました。

−−心のうちでは魚住さんが可愛くて仕方なかったのでしょうね。

魚住さん:どうでしょう。父はお酒が大好きで、家族でお酒を飲むのが父以外には私だけだったので、学会などで上京する予定があると、「◯月◯日に行くんやけど、お前、夜は空いているか」と電話がかかってきました。

「空けておきます」と答えると、決まって「店を選んでおくように」と言われ、これが一仕事でした。父の地雷を踏むようなことが起きては困るので、お店は慎重に選ばなければなりません。一軒目で解散の場合もあれば、「二軒目、行くか」となることもありますから、お店もいくつか見繕う必要がありました。

お酒はビールで乾杯し、ワインや日本酒を愉しんで、締めはウイスキー。つつがなく事が運ぶよう、父好みのお酒を私が買い、お店にお願いして事前に持ち込んだりもしました。私もお酒が好きなので飲みは大歓迎なのですが、相手は父です。飲んでいる間も私は敬語ですから、正直なところ、最初は肩が凝りました。でも、酔っ払って楽しそうな父の隣にいるのは嫌いじゃなかったです。
魚住さん:父はしゃべるのが大好きで、学生時代は専ら私が父の「講義」を拝聴していましたが、社会に出てからは、私の仕事のことを興味深そうに聞いていました。「スタジオってどうなってんねん」「BSとCSの違いってなんや」と質問され、説明すると、「そうか。わしは医者の世界しか知らんから、おもろいな」とうなずいていた姿を思い出します。

今思えば、父とのサシ飲みは、父娘で飲むというよりは職業人同士、人生の大先輩と「飲ませていただく」感じでしたね。ある時期からは、父の方も私を娘としてというよりは、一人のプロの仕事人として接してくれていたように思います。

うちは姉も兄も地元で暮らしていて、実家を離れたのはきょうだいの中で私だけです。早くから親元を離れ、都会で仕事を続けている私のことを父が「認めている」と母が言ったことがあります。それを聞いた時は、何だかうれしかったですね。

泣き笑いの家族葬と弟子100名!の送る会

−−お父様は2021年7月に89歳で他界されました。

魚住さん:亡くなる1週間前に広島に帰省し、夫と一緒にお見舞いをしました。コロナ禍で面会時間はわずか15分。父は東京オリンピックの開催を指折り数えて待っていたので、「お父さん、あと◯日で開会式ですよ。がんばって!」と声をかけましたが、開会式の12時間前に息を引き取りました。

食べることとしゃべることがとても好きだった父なのに、最後はがんが身体のあちこちに転移してたくさん管が取り付けられ、水を飲むことすらできない状態でした。つらかったかと思います。でも、目の光だけは、息を引き取る直前までものすごく強かったんですよ。「わしはまだ死なんぞ」という気迫を感じました。

父の遺志で、葬儀は家族と近くに住む親戚数名のみで執り行いました。コロナ禍だったということも理由ですが、父には「弱ったわしを、弟子たちに見せるわけにはいかん」という確固たる思いがあったようです。

「お父さん、にぎやかなことが好きだったから、小ぢんまりとしたお葬式は寂しくないかな。本当にこれでいいのかな」と家族で話したりもしました。でも、表現はそぐわないかもしれませんが、楽しい時間だったんですよ。父が好きだった諏訪内晶子さんのヴァイオリン協奏曲をかけ、家族で思い出話をして泣き笑い。最後の時間を家族でゆったり過ごすことができました。

3回忌を迎える前にはコロナ禍も少し落ち着いたので、「送る会」も開き、お弟子さんたちが全国から100名ほど集まってくださいました。広い会場に父の遺影とお花が飾られ、最初こそしめやかな雰囲気もありましたが、皆さんたくさんお酒を飲んで、気づけば宴会に(笑)。お土産は父が好きだった、広島の銘酒「雨後の月」でした。父は湿っぽいことが好きではありませんでしたから、お世話になった皆さんと父らしくお別れができたことを喜んでいると思います。

いつも力強く溌剌と、人に弱いところは見せない━━父は最後まで自らの美学を貫きました。本当に父は昔気質の人だった、と思います。強い人だな、って。力強く生き、誇り高く死ぬとはどういうことなのかを父の姿に教えられました。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
石川県珠洲市「宗玄酒造」の杜氏・坂口幸夫さんがつくる日本酒を飲みたいです。日本酒はつくり手によって味が異なり、人を感じられるのが魅力のひとつ。私が日本酒のおいしさに目覚めたきっかけは、坂口さんのお酒でした。お米のふくよかなうま味が口の中で膨らみ、切れ味さわやか。絶妙な味わいなんです。家族と一緒に坂口さんの「純米吟醸無濾過生原酒 宗玄」の新酒を飲めたら、それほど幸せな最後の食事はありません。

宗玄酒造

江戸時代初期より独自の酒造技術を伝承する「能登杜氏」発祥の蔵とされている、石川県珠洲市の「宗玄酒造」。能登半島地震の影響で生産停止に追い込まれたが、電力が絶たれた中、奇跡的に残ったもろみを使って手作業で日本酒づくりを行い、数量限定の「復興の酒」(完売)をインターネットで販売した。本格的な再開は2024年秋ごろを目標としている。
宗玄酒造公式サイト https://www.sougen-shuzou.com/

プロフィール

フリーアナウンサー/魚住りえさん

【誕生日】1972年3月2日
【経歴】大阪府生まれ、広島県育ち。1995年、慶応義塾大学文学部を卒業し、日本テレビにアナウンサーとして入社。2004年にフリーに転身し、テレビ、ラジオを問わず幅広く活躍。また、約30年にわたるアナウンスメント技術を生かした「魚住式スピーチメソッド」を確立し、現在はボイス・スピーチデザイナーとしても注目されている。

Information

魚住さんの著書『話し方が上手くなる!声まで良くなる!1日1分朗読 これぞ日本語最高峰!何度でも読みたい名文・名作編』(東洋経済新報社)は、独自の朗読メソッドを初公開したロングセラー『話し方が上手くなる!声まで良くなる!1日1分朗読』(東洋経済新報社)の第2弾。厳選した名文22作品を紹介し、魚住さん自身によるお手本も無料で聞ける。
『話し方が上手くなる!声まで良くなる!1日1分朗読 これぞ日本語最高峰!何度でも読みたい名文・名作編』 
魚住りえ(著)/高澤秀次(協力)[東洋経済新報社]
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康  Hair&Makeup/畑野和代)