「13年ぶりの“お化粧をした母の顔”」元プロボクサー・藤岡奈穂子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第38回~
コラム
2023年5月に47歳で引退するまでの14年間、プロボクサーとして日本の女子ボクシングを牽引してきた藤岡奈穂子さん。日本人初の5階級制覇、米国開催の女子世界戦での日本人初勝利といった輝かしい記録を残すとともに、女子ボクシングの普及に貢献してきました。前編では、リングに上がる藤岡さんを心配しながらも応援し続けてくれたお母様の思い出と別れについてうかがいます。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
スーツケースひとつで宮城から上京。33歳でプロボクサーに
−−藤岡さんは元ソフトボールの実業団選手で、ボクシングを始めたのは24歳の時(1999年)。きっかけは何だったのでしょうか。
藤岡さん:ソフトボールで挫折をして所属していた会社も辞め、「このままでは人生がつまらなくなるから、何か別の競技に打ち込みたい」と思っていた時に、たまたま地元(宮城県)のボクシングジムの「男女練習生募集」という広告を見かけたんです。ボクシングをやっている女性というのは聞いたことがなかったので、「ボクシングなら、今からでも1番になれるかも」と考えて門を叩きました。
−−ボクシングを始めた翌年にアマチュアデビュー戦でKO勝ちし、新人王を獲得。その後、東京のジムからスカウトされて33歳でプロデビューされました。地元を出ることには、葛藤があったそうですね。
藤岡さん:当時は佐川急便のドライバーとして働きながらボクシングをやっていて、生活が安定していました。一方、女子ボクシングは日本ボクシングコミッションにプロとして公認されたばかりで世間に知られておらず、ファイトマネーもチケットで支払われるような状況。経済的に苦しくなるのは目に見えていました。ずっと宮城で育ち、東京はおそろしい場所だと思っていましたし、すべてを捨てて何の保証もない世界に飛び込むのは、やはり怖かったです。
藤岡さん:ソフトボールで挫折をして所属していた会社も辞め、「このままでは人生がつまらなくなるから、何か別の競技に打ち込みたい」と思っていた時に、たまたま地元(宮城県)のボクシングジムの「男女練習生募集」という広告を見かけたんです。ボクシングをやっている女性というのは聞いたことがなかったので、「ボクシングなら、今からでも1番になれるかも」と考えて門を叩きました。
−−ボクシングを始めた翌年にアマチュアデビュー戦でKO勝ちし、新人王を獲得。その後、東京のジムからスカウトされて33歳でプロデビューされました。地元を出ることには、葛藤があったそうですね。
藤岡さん:当時は佐川急便のドライバーとして働きながらボクシングをやっていて、生活が安定していました。一方、女子ボクシングは日本ボクシングコミッションにプロとして公認されたばかりで世間に知られておらず、ファイトマネーもチケットで支払われるような状況。経済的に苦しくなるのは目に見えていました。ずっと宮城で育ち、東京はおそろしい場所だと思っていましたし、すべてを捨てて何の保証もない世界に飛び込むのは、やはり怖かったです。
−−ご家族も心配されたでしょうね。
藤岡さん:はい。とくに母は「危険だから、やめて」と猛反対でした。一方、私も母のことが一番の気がかかりでした。母は若いころから体が丈夫ではなく、私が上京する数年前から在宅酸素療法を受け、24時間酸素カニューラ(酸素投与のためのチューブ)をして暮らしていました。通院などで外出する時にも携帯酸素ボンベを持ち歩くような生活でしたから、できるだけ母のそばにいたいという気持ちがあったんです。
藤岡さん:はい。とくに母は「危険だから、やめて」と猛反対でした。一方、私も母のことが一番の気がかかりでした。母は若いころから体が丈夫ではなく、私が上京する数年前から在宅酸素療法を受け、24時間酸素カニューラ(酸素投与のためのチューブ)をして暮らしていました。通院などで外出する時にも携帯酸素ボンベを持ち歩くような生活でしたから、できるだけ母のそばにいたいという気持ちがあったんです。
−−それでも上京を決意されたのは?
藤岡さん:スカウトを断れば、アマチュア時代の仲間の活躍を見て「あの時、やっていたら」と後悔するかもしれません。そんな人生を送りたくないと思いました。母のことはなかなか踏ん切りがつきませんでしたが、娘が自分のために夢をあきらめたとなれば、母は重荷に感じるはず。「それならば、まずはやってみて、1回でも負けたら地元に帰ろう」と考え、スーツケースひとつで上京しました。合宿に出かけるようなつもりでした。
藤岡さん:スカウトを断れば、アマチュア時代の仲間の活躍を見て「あの時、やっていたら」と後悔するかもしれません。そんな人生を送りたくないと思いました。母のことはなかなか踏ん切りがつきませんでしたが、娘が自分のために夢をあきらめたとなれば、母は重荷に感じるはず。「それならば、まずはやってみて、1回でも負けたら地元に帰ろう」と考え、スーツケースひとつで上京しました。合宿に出かけるようなつもりでした。
初黒星に母の喝。「私のせいにしてやめないで」
−−2009年9月に東京・後楽園ホールで行われたプロデビュー戦では、タイのリリー・ゴーキャットジム選手をTKO勝ちで下し、プロ入り初白星を手にしました。お母様は何かおっしゃっていましたか?
藤岡さん:デビュー戦の日、父と妹は後楽園ホールまで応援に来てくれましたが、母は「見ていられない」と言ってひとりで家にいて、気が気じゃなかったみたいです。2試合目からは「私も行く」と言って会場で応援してくれました。生で観たら面白かったようです。ただ、心配はずっとしていたと思いますね。何度か、「早くやめて帰ってきてほしい」と言っていました。
ところが、3階級制覇を賭けた2014年11月のドイツ戦で初黒星を喫した時のこと。母の病状が進んだこともあって引退を考え、帰省した時に話したら、母から「一敗したくらいで何を言っているの。私のせいにしてやめないで」「やっぱりあなたは、リングの上が一番似合っているよ」と発破をかけられました。
あんなに反対していた母がそこまで言ってくれたからには、全力を尽くすしかありません。再び気持ちを奮い立たせ、翌年の2015年10月、後楽園ホールで行われたWBO女子バンダム級王座決定戦で3階級制覇を果たしました。
藤岡さん:デビュー戦の日、父と妹は後楽園ホールまで応援に来てくれましたが、母は「見ていられない」と言ってひとりで家にいて、気が気じゃなかったみたいです。2試合目からは「私も行く」と言って会場で応援してくれました。生で観たら面白かったようです。ただ、心配はずっとしていたと思いますね。何度か、「早くやめて帰ってきてほしい」と言っていました。
ところが、3階級制覇を賭けた2014年11月のドイツ戦で初黒星を喫した時のこと。母の病状が進んだこともあって引退を考え、帰省した時に話したら、母から「一敗したくらいで何を言っているの。私のせいにしてやめないで」「やっぱりあなたは、リングの上が一番似合っているよ」と発破をかけられました。
あんなに反対していた母がそこまで言ってくれたからには、全力を尽くすしかありません。再び気持ちを奮い立たせ、翌年の2015年10月、後楽園ホールで行われたWBO女子バンダム級王座決定戦で3階級制覇を果たしました。
4階級制覇の翌週、ひとりで逝った母の優しさ
−−2017年3月13日には、男女通じて日本人初となる4階級制覇を達成されました。お母様が他界されたのはその翌週だったそうですね。
藤岡さん:亡くなるまでの数年はいつ何があってもおかしくない状態が続いていて、試合が終わった翌日か翌々日には実家に帰っていました。でも、この時は応援してくださっている地元の先輩たちの会が数日後にあって、すぐには帰れず、会が終わり次第新幹線に乗る予定にしていたんです。
母が自宅で倒れ、救急車で運ばれたという知らせを受けたのは、その会の最中でした。すぐに宮城県川内市の病院に向かったものの、病室に着いた時に母の意識はすでになく、翌朝、母はひとりで息を引き取りました。家族が病室に泊まるわけにもいかなかったので、一度実家に戻り、みんなで車に乗って病院に向かう途中でした。
藤岡さん:亡くなるまでの数年はいつ何があってもおかしくない状態が続いていて、試合が終わった翌日か翌々日には実家に帰っていました。でも、この時は応援してくださっている地元の先輩たちの会が数日後にあって、すぐには帰れず、会が終わり次第新幹線に乗る予定にしていたんです。
母が自宅で倒れ、救急車で運ばれたという知らせを受けたのは、その会の最中でした。すぐに宮城県川内市の病院に向かったものの、病室に着いた時に母の意識はすでになく、翌朝、母はひとりで息を引き取りました。家族が病室に泊まるわけにもいかなかったので、一度実家に戻り、みんなで車に乗って病院に向かう途中でした。
−−お母様は藤岡さんが4階級制覇を達成されたことを知って旅立たれたのですか。
藤岡さん:家族が伝えてくれて、「よかったね」と言ってくれましたが、体がつらく、喜んでくれる余裕はなかったのではと思います。自分のことを「まだ帰ってこないのか」と言っていたと後に聞き、「せめてもう1日早く帰っていたら」と悔やみました。
ひとりで逝かせてしまったことも申し訳なく感じています。最後は呼吸ができなくて、すごく苦しかったはずです。一方で、正直なところ、母が苦しみながら亡くなる姿を見たら、どうだったかなという思いもあります。都合のいい解釈ではありますが、家族がいない時間に亡くなったのは、みんなにつらい思いをさせないための母の優しさだったのかもしれません。申し訳なかったなと思いつつも、今はそんなふうに考えることにしています。
藤岡さん:家族が伝えてくれて、「よかったね」と言ってくれましたが、体がつらく、喜んでくれる余裕はなかったのではと思います。自分のことを「まだ帰ってこないのか」と言っていたと後に聞き、「せめてもう1日早く帰っていたら」と悔やみました。
ひとりで逝かせてしまったことも申し訳なく感じています。最後は呼吸ができなくて、すごく苦しかったはずです。一方で、正直なところ、母が苦しみながら亡くなる姿を見たら、どうだったかなという思いもあります。都合のいい解釈ではありますが、家族がいない時間に亡くなったのは、みんなにつらい思いをさせないための母の優しさだったのかもしれません。申し訳なかったなと思いつつも、今はそんなふうに考えることにしています。
亡くなった後、お化粧をしてもらった母を見て、「酸素カニューラをつけていないお母さんの顔を、ものすごく久しぶりに見た」と思いました。母が酸素カニューラをつけはじめたのは52歳の時。65歳で他界するまで13年間、家事をする時も寝ている時もつけ、東日本大震災直後は、停電で酸素吸入器を自宅で使えず、1週間ほど入院しなければなりませんでした。
地元も被害を受け、母にもさまざまな思いがあったと思います。それでも、2011年5月8日、世界王座を初めて獲得した日。母は後楽園ホールまで駆けつけてくれ、リングに上がる前に「東北のために頑張りなさい」と励ましてくれました。
きれいにお化粧をして、棺で眠る母の顔は安らかで、「すごく楽になったね」と心の中で声をかけました。自分もふっと、楽になった気がしました。
地元も被害を受け、母にもさまざまな思いがあったと思います。それでも、2011年5月8日、世界王座を初めて獲得した日。母は後楽園ホールまで駆けつけてくれ、リングに上がる前に「東北のために頑張りなさい」と励ましてくれました。
きれいにお化粧をして、棺で眠る母の顔は安らかで、「すごく楽になったね」と心の中で声をかけました。自分もふっと、楽になった気がしました。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
おにぎりです。現役時代、日本で試合がある日には、会場の後楽園ホールに向かう途中に家族が滞在するホテルに寄り、母のおにぎりを食べてからリングに上っていました。母の病状が重くなり、応援に来られなくなってからは、妹におにぎりを作ってきてもらうようお願いし、5階級制覇の日にも食べました。やっぱり、心が落ち着くんです。最後の食事も、身近な人に作ってもらったおにぎりが食べたいなと思います。
専門店「おにぎり ぼんご」(東京・大塚)
おにぎり好きの藤岡さんにもおすすめしたい、東京・大塚で有名な創業60年のおにぎり専門店。新潟岩船産のコシヒカリを使用し、種類豊富な56種類のおにぎりを取り扱っています。トッピング次第でオリジナルおにぎりも作れます。
プロフィール
元プロボクサー/藤岡奈穂子さん
【誕生日】1975年8月18日
【経歴】宮城県出身。実業団のソフトボール選手を経て、24歳からボクシングを始める。2009年、プロデビュー戦に勝利。2011年5月WBC女子世界ストロー級王座獲得を皮切りに、2017年12月女子ライトフライ級王座獲得により、男女通じて日本人初となる5階級制覇を果たした。2021年7月、日本の女性ボクサーとして初めて米国の試合で勝利。2023年5月、引退を表明した。生涯戦績19勝7KO3敗1分。
【誕生日】1975年8月18日
【経歴】宮城県出身。実業団のソフトボール選手を経て、24歳からボクシングを始める。2009年、プロデビュー戦に勝利。2011年5月WBC女子世界ストロー級王座獲得を皮切りに、2017年12月女子ライトフライ級王座獲得により、男女通じて日本人初となる5階級制覇を果たした。2021年7月、日本の女性ボクサーとして初めて米国の試合で勝利。2023年5月、引退を表明した。生涯戦績19勝7KO3敗1分。
(取材・文/泉 彩子 写真/刑部 友康)