「母との最後の日々に続けた“発表会”」タレント・青木さやかさん【インタビュー前編】~日々摘花 第37回~

コラム
「母との最後の日々に続けた“発表会”」タレント・青木さやかさん【インタビュー前編】~日々摘花 第37回~
「どこ見てんのよ!」のネタでブレイクし、タレントとして活躍する青木さやかさん(50歳)。近年は演技や文筆活動でも才能を発揮し、自身の人生を飾らずに綴ったエッセイが多くの読者の共感を呼んでいます。前編では、かつては「大嫌いだった」というお母様との別れと、一緒に過ごした最後の日々についてうかがいました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

高校時代に両親が離婚。母が母でないように見えた

−−青木さんは愛知県尾張旭市ご出身で、教師だったご両親と弟さんの4人家族。高校時代にご両親が離婚されたことをきっかけに、お母様に対するわだかまりを抱えるようになったそうですね。

青木さん:母はいい大学を主席で卒業後、女性は“3年で寿退社”が当たり前だった時代に小学校の教師になり、校長まで務めた人。同じ教育大学に通っていた父と若くして結婚し、20代半ばで私を産みました。今思えば、私が子どものころは仕事がすごく大変だったんだと思います。平日に家族で食卓を囲むことはほとんどなく、夕飯は近くに住む祖母が作ってくれました。

母は厳しい人で、ほめてもらった記憶がありません。テストで90点を取っても「何であと10点取れなかったの?」と言い、ピアノの練習を頑張って『エリーゼのために』を発表会で弾かせてもらえることになっても、母から返ってきたのは「『エリーゼのために』は去年、もう◯◯ちゃんは弾けてたね」という言葉でした。

世間体をとても気にする人で、母にとっては自分自身や家族が「どう見られるか」がとても大事だったように思います。「大学は出た方がいい」とか「離婚した人はかわいそう」というようなこともよく言っていました。

キレイで頭が良く、教師としていろいろな人から慕われていた母は、子ども時代の私にとって絶対的な存在でした。母の価値基準が正しいと思い込んでいましたから、みんなにほめてもらえるような「青木先生のお嬢さん」でいなければと何でも頑張りました。

ところが、高校生の時に両親が離婚し、母への思いが180度変わりました。「今まで私に教えてきたことは何だったんだ」という思いもありましたし、離婚の原因が母にある感じもして、母が母でないように見えたんです。母ではなく教師、女に見えた。思春期の私にはそれが生理的に受け入れがたく、ほとんど口をきかなくなりました。両親の離婚後は私と弟、母の3人で暮らしましたが、私から母に話しかけるのはお金が必要な時や、書類にサインをしてもらう時くらいだったと思います。

娘を抱く母に「私の大事なものに触らないで!」

−−青木さんはお笑いの世界を目指し、26歳で上京。30代を前にブレイクし、誰もが知る存在になりました。お母様は何かおっしゃっていましたか。

青木さん:娘が芸人になることは、母にとって嫌なことだったと思います。だからこそ、「お笑いの世界で成功してやる」みたいな気持ちも私にはありました。売れれば、お金も手に入るし、孤独感だとか人とうまくいかない感じとか、満たされないものがすべて埋まる気がしていました。

ところが、売れてお金は入ってきたけれど、さみしさは変わりませんでした。結局、私は自分のことが嫌いだから、私のことを認める人が信用できなかったんだと思います。知らない人が自分を知っているということが怖くて、評価をされるほど人から逃げたくなりました。一方、母はと言えば、「そろそろ地元に帰って公務員の人とお見合いしたらどうですか」と手紙をよこすくらい。私が芸人として売れることでダメージを受けたのは、母ではなく私自身でした。
青木さやかさん母娘
−−その後、青木さんは結婚され、2009年にご長女を出産しました。

青木さん:母との関係について「子どもができたら、変わるよ」と言ってくれる人もいましたし、私自身も、これで親に感謝できると期待しました。でも、娘が生まれて1週間後のこと。母が東京の私の家を初めて訪れ、生まれたばかりの娘を抱いた瞬間、私に湧いてきたのは「私の大事なものに触らないで」という強い感情でした。

自分はこれほどまでに母が嫌いなのか、と気づいて驚きました。親のことを嫌いにならない方がいい、と頭では分かっているのに、どうしてもできない。人としてどうなんだろう、私何をしているんだろう、と思いつつも、「これはもうどうしようもない」ということがはっきりした感じもあって、やり切れない思いでした。

ただ、娘が生まれてから、母と会う頻度は増えました。私なりに母とのことを何とかしようと、旅行をプレゼントしたり、お金を渡したり、親孝行をしたような気にもなっていました。でも、母が嫌いという感情が消えることはありませんでした。2017年に母に悪性リンパ腫が見つかり、入退院を繰り返すようになってからも、母のことが心配なのに、優しい言葉をかけられることはできなくて、自分でも「一体、何なの」と思いました。母と向き合う、と決めたのは2019年8月に、母がホスピスに入ってからです。
−−何かきっかけがあったのでしょうか。

青木さん:当時の私は、八方塞がりだったんですね。娘が2歳の時に離婚をしてパニック症を患った時期もあったし、ようやく落ち着いたかなと思ったら、肺がんになり、人間関係もうまく行っていませんでした。とにかく、毎日が全然楽しくなかった。だから、何かを変えたいと思っていたけれど、自分を楽にしてくれそうなものが何も見つかりませんでした。根本に親子関係があることもわかってはいましたが、それは「どうしようもないこと」でした。

でも、いよいよ切迫詰まっていた時に、動物愛護活動を一緒にしている仲間のひとりが、「青木さん、親孝行は道理なんだ。親を大事にすれば、自分が楽になれるよ」と言ったんです。「それは分かっているけれど、できない」というようなことを話したら、「やらなかったから、できなかった。やればいい」と。その言葉を聞いて初めて、できる気がしました。

片道5時間かけ、母が入院するホスピスへ毎週通い続けた

−−それからの青木さんはお母様と仲直りすると心に決め、週に1度、愛知県のホスピスまで片道5時間かけて車で通い続けました。最初はどのようなご心境でしたか。

青木さん:耳がキーンとするくらい嫌でした。だけど、何しろ人生を変えたかったんです。母のためではなく、自分のために。だから、「やるしかない」というか、賭けみたいな感じでした。

感情は変えられないけれど、行動は変えられる。そう自分に言い聞かせながら、名古屋までの車の中で、母との面会の場面をシミュレーションしました。セリフを考えて声のトーンも決め、何度もお稽古して、病室で発表しました。

最初は娘も連れて行きましたが、真正面から母に向き合わないと、自分のためにならないと思って途中からはひとりで行きました。初日は病室に10分いるのがやっと。でも、やり始めた以上は「またダメだった」とあきらめるのは嫌でした。
青木さん:だから、「よし、今日は謝ろう」、「今日は手を握ろう」、「娘のテストを見せよう」と毎回ちょっとずつ目標を決めて「発表会」を続け、機嫌よく母と過ごせる時間が15分、30分と増えていきました。すると、自分をほめることができるようになったんです。誰がほめてくれるわけでもないんだけど、「私、すごくない?」って(笑)。

「今日はダメだった」という日もありました。でも、「絶対、初日には戻らないぞ」という思いで頑張って、階段を2段上がっては1段下がりながら、ジグザグと上がっていく感じでしたね。そのうちに母との間の空気が徐々に変わって行きました。
−−最終的におふたりの間にあった空気は、安らげるものでしたか?

青木さん:苦手な人と一緒にふたりだけで個室にいる、という空気ではないところまでは明らかに行けた気がします。

母との最後の日々で、私にとって一番難しかったのは、「機嫌のいい空気感の中で、他愛もない話をする」ということでした。でも、最後の最後にはそれができました。そして、その時の私は母のことが嫌いではなくなっていました。

母がどう感じていたかはわかりませんが、私の中では、母との間のことを解決できたと思っています。
−−そのことは、青木さんの何かを変えましたか?

青木さん:すごく楽になりました。「世の中で一番苦手だと思っていた人に対する自分の気持ちを解決できたのだから、誰との間のこともきっと解決できる」と思えるようになりました。疎遠になってしまった人たちとも、最終的には許して許されるんじゃないか。そんな希望を持てるようになり、とても力づけられました。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
子どものころ、母は働いていたし、料理が得意ではなかったので、平日に私たちのごはんを作ってくれていたのは母方の祖母でした。週末は外食が多く、両親から「どこがいい?」と聞かれると、決まって答えたのが「ステーキのあさくま」。誕生日には必ず連れて行ってもらいました。

数十年行っていなかったのですが、母の他界後、たまたま通りがかりに「あさくま」を見つけました。「懐かしいなぁ」と思って入り、定番メニューのコーンスープを口にした時、ふっと母の顔が心に浮かび、涙が出ました。

最後の食事は、このスープを飲みたいです。

「ステーキのあさくま」コーンスープ

1948年に愛知県で創業し、全国に65店舗以上を展開する老舗ステーキレストラン「ステーキのあさくま」。看板メニューのサラダバーで、長年にわたり人気なのがコーンスープです。北海道十勝で作られる指定した品種のとうもろこしをブレンド。商品開発担当者が収穫に立ち会い、その年のとうもろこしに合わせて道内の工場で味の調整をしています。

プロフィール

タレント/青木さやかさん

【誕生日】1973年3月27日
【経歴】愛知県出身。大学卒業後、フリーアナウンサーとして名古屋を中心に活動後、お笑い界へ転身。近年は演技や執筆活動にも力を入れている。また、TWFの会(動物、自然、生活環境の保護活動をするNPO法人)でボランティア活動にも取り組んでいる。
【ペット】猫2匹(シティ♂ 、クティ♂)

Information

母との関係に悩み、現在は中学生になる娘さんを育てる青木さんが、母との関係を振り返りながら、自身の娘との関係を見つめたエッセイ『母が嫌いだったわたしが母になった』(KADOKAWA)。子どもとの関係のなかで大切にしていること、これまでの子育てで悩んできたこと、幸せを感じたことなどを、青木さんらしい、味のある文章でつづっている。親子にまつわる悩み相談も収録。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)