「カメラ越しに向き合った、認知症の母」ドキュメンタリー監督 信友直子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第24回~

コラム
「カメラ越しに向き合った、認知症の母」ドキュメンタリー監督 信友直子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第24回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第24回のゲストは、ドキュメンタリー監督 信友直子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
東京で働く信友さんが広島県呉市で暮らす認知症の母と、介護をする90代の父の姿を記録し、ドキュメンタリーとしては異例の20万人を動員した映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』(2018年公開)。2022年3月に公開された続編『ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん~』には父と娘で看取った母の最期までが記録されています。
前編では、ご両親の老老介護の様子や認知症が進行していくお母様の姿を信友さんがどのような思いで撮り続け、作品として公開したのかをうかがいました。

「ぼけますから、よろしくお願いします」

©2022「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」製作委員会
ーー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』シリーズ2作を拝見しました。タイトルの「ぼけますから、よろしくお願いします」は、お母様が実際におっしゃった言葉なんですね。

信友さん:2017年の年明けの瞬間、「あけましておめでとうございます」というあいさつに続けて「今年はぼけますから、よろしくお願いします」と言いました。母は昔から冗談が好きで、自虐ネタが十八番。母らしい言い方に思わず笑いましたが、進行していく認知症に向き合うことへの母の覚悟のようなものを感じ、切なくもありました。当時母は87歳。アルツハイマー型認知症と診断されて3年目でした。

ーーお母様がご自身の認知症を自覚されていることに驚きました。

信友さん:「認知症の人は何もわからない」と誤解されている方もいらっしゃるかもしれませんね。かつては私自身もそうでした。でも、実は本人が一番自分の変化をわかっていて、つらいんです。私がそのことを知ったのは、母がまだまだ元気だったころ。2004年にたまたま参加した講演会で、46歳でアルツハイマー型認知症を発症したクリスティーン・ブライデンさんというオーストラリアの女性のお話を聞いたことがきっかけでした。

ブライデンさんは日本で開かれた国際会議で、認知症の進行とともに「自分が自分でなくなってしまうのではないか」という恐怖や、周囲の言動への戸惑いを世界で初めて当事者として語りました。それを聞いて心によみがえったのが、母方の祖母の姿です。大好きな祖母でしたが、認知症で人が変わったようになり、子どもだった私は祖母のことを「怖い」と感じて遠ざけてしまったんです。でも、ブライデンさんの話を聞いて祖母が感じていたつらさに気づき、「おばあちゃんの声にもっと耳を傾けてあげればよかった」と申し訳なく感じました。

祖母への思いを原点に、認知症の方たちを取材する番組を作ったこともあります。こうした経験から、認知症患者をめぐる状況への課題意識はもともと持っていました。ただ、認知症になった母の思いを作品として皆さんにお伝えすることになるとは想像していなかったんですよ。職業上カメラを回すことが多く、20年ほど前から両親が何となく練習台になってくれていたので、私が両親を撮ることはいつの間にか信友家にとって日常の光景になっていました。だから、両親もまさか自分たちの映像がテレビ番組や映画になるとは思っていなかったはずです。

葛藤しながら世に出した、老老介護をする両親の映像

ーーその映像を世に出そうと考えたのはなぜだったのでしょうか。

信友さん:母が認知症になって以降、頻繁に実家に帰る生活を続けているうちに、今の我が家の状況が「認知症」や「老老介護」「遠距離介護」といった社会問題と重なると気づき、どこからともなく職業意識が湧いてきたからです。

それだけではプライベートの映像を公表しようとは考えなかったと思いますが、母は自分が認知症であると自覚しており、それを言葉にした様子が一度ならず映像に残っていました。認知症の方々を数多く取材してきた立場からお話しすると、認知症の方のこうした姿が映された映像は非常にまれです。

認知症になっても何もわからなくなるわけではなく、本人はつらさを感じているということを、母の姿から多くの方に知ってもらえたら……そんな思いから、いつかは両親の映像を何らかの形で表に出した方がいいのではと考えてはいました。とはいえ、あくまでも「いつか」の話だったんです。

その「いつか」が早まることになったのは、私が両親の映像を撮っていることを知ったフジテレビのプロデューサーさんから、「貴重な映像ですから、番組にしませんか」とご提案いただいたことが始まりでした。ただ、一度はお断りしたんですよ。両親は母が認知症であることをご近所に言っていない様子でしたから、世間に知られるのはイヤだろうなあと思って。

ところが、父に話すと、「あんたの仕事の役に立つなら、わしは協力する」と即答でした。父には戦争で夢をあきらめた経験があり、ひとり娘の私に自分を重ね合わせていたのでしょう。私が東京で好きな仕事をすることを誰よりも喜び、どんな時も応援してくれました。その父もこの時ばかりは断るだろうと思っていましたから、ありがたさとともに私に託した父の夢の大きさを感じました。
信友さ:父の横にいた母も「お父さんがええなら、私もええよ」と言ってくれ、番組を作ることが決定。2016年9月、フジテレビの情報番組『Mr.サンデー』で2週にわたって放送し、「うちもこうなんです」「自分の将来を見るようです」という感想をたくさんいただきました。本音を言えば、番組を観た近所の方たちにどう思われるかなという不安もあったのですが、放送直後、いろいろな方から「言ってくれたら、もっと早く手を貸せたのに。水くさい」と叱られて……。皆さんの温かさにすごく救われましたね。

母も番組を観て喜んでくれました。テレビ放送後、映像を呉市のホールで上映する機会があり、母に「行きたい?」と聞いたら乗り気でした。「多くの方の前で認知症を患う自分がスクリーンに映し出されることを母はどう感じるんだろう」と思いながらも一緒に行ったところ、それはもう楽しそうに観ていたんです。その姿を見て、胸をなでおろしました。

[衝撃映像]母をまたいでトイレにいく父

ーーテレビ放送には大きな反響があり、映画化が決定しましたが、映画制作の過程でお母様の認知症が進行し、1作目公開を控えた2018年9月に脳梗塞を発症。入院生活が始まり、2020年6月に他界されました。カメラを回し続けるのは、つらかったのではないでしょうか。

信友さん:テレビ放送のお話もなかった時期に、カメラを回さなかったことはありました。母が認知症と診断されたのは2014年1月ですが、私が母の異変に気づいたのはその1年半ほど前。その後、様子を見に実家に帰る度に母のおかしな言動が目立つようになり、私の中で「お母さんは認知症かもしれない」という疑いが確信に変わりつつありました。

一方、母は自分がおかしなことをした時にそれを隠そうとしていましたから、カメラが回っている時に母が粗相をして映像に残してしまったら、それを見た母のプライドが傷つき、悲しい思いをさせてしまうかもしれないと考えて撮れなかったんです。

ところが、2013年のお正月のこと。台所で一緒にいた時に母がサラリと「あんた、最近ビデオを撮らんね。お母さんがおかしゅうなったけん、撮らんようになったん?」と言い、ハッとしました。私自身の中に「認知症かもしれない母」を受け入れたくない、認めたくないという思いがあることに気づかされたからです。

考えてみれば、何があっても母は母。撮られて恥ずかしい人間になったわけではないんだから、認知症を理由に母を撮らないのは筋の通らない話です。また、自分の変化に不安を感じ、戸惑っている母にとっては、家族がいつも通りにしていた方が安心なんだということも、そのひと言に学びました。

以来、実家でカメラを回すことをためらったことはありません。今まで通り、普段通り、両親のことを最後まで撮り続けると決めていました。もちろん、大好きな母が認知症の進行によって変わっていく姿を見るのは悲しく、さみしくて、目を背けたくもなりました。
信友さん:もともとの母は朗らかで愛情深く、生活を楽しむ名人。高校時代、朝の支度が間に合わなくてバス停まで走る私についてくる母に「なんでお母さんまで走るん?」と聞いたら、「だって、その方が直子も楽しいじゃろ」と言うような人でした。

その母が粗相をしても知らん顔をし、指摘をすると逆ギレしたり、デイサービスに行くのを勧める父に「私がおると邪魔なんね?」と怒鳴る姿を見て、「どうしてこんなことに」と何度も思いました。私自身が鬱のようになった時期もあります。

でも、ある時、思ったんです。嘆いても母の認知症が治る訳ではありません。それならば、現実を前向きに受け止めて日常を楽しまないと、人生、損じゃないって。「人生、楽しまないと損」というのは、私が45歳で乳がんになり、暗い気持ちで過ごしていた時に母が私を励ましてくれた言葉でした。

その言葉を実行するのは簡単ではありませんでしたが、私にとって救いはカメラでした。カメラを回していると自然と客観的視点で物事を見ることができます。娘としては情けなくなるような母の振る舞いも、カメラ越しに見れば、思わず笑ってしまうことすらありました。

例えば、映画でもお見せした我が家のひとコマ。溜め込んだ汚れ物の山を洗濯しようとした母が床に洗濯物をばら撒きはじめ、あまりの量に途中で嫌気がさしたのか、洗濯物の上に寝転がってしまったことがありました。カメラを回していなければ、号泣していたかもしれません。でも、カメラを回していた私がその光景を見て頭に浮かんだ言葉は、「衝撃映像だ!」でした(笑)。

おまけにそこにやってきた父が「しょんべん、しょんべん」と言いながら母をまたいでトイレへ。またがれた母も気に留めていない様子を見て、つい吹き出してしまいました。そして、「これが信友家の今なんだな」と思ったら、ふっと肩の力が抜けて心が楽になったんです。

「人生は寄って見れば悲劇だが、引いて見れば喜劇だ」というチャップリンの言葉があります。私はカメラを回すことで、認知症になった母の姿を少しずつ「ヒキ」で見ることができるようになりました。皆さんにも、介護で行き詰まった時は「ヒキ」で見ることをおすすめしたいです。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
餃子が食べたいです。母が作ってくれた餃子がおいしかったんですよ。ごく普通の餃子なのですが、ごま油で焼いていたのが良かったのかな。残った具をそぼろにして、ごはんにかけて食べたりもしていたんですけど、それがまたおいしくて。「私が包むから、餃子作って」とよくリクエストしていました。だから、私、餃子を包むのは得意なんですよ(笑)。

「餃子そぼろ」の作り方

フライパンにごま油を熱し、餃子の具を醤油やオイスターソースなど好みの調味料を水分がなくなるまでしっかりと炒める。ごはんのほか、そうめんや豆腐にかけてもおいしい。具は置いて置くと野菜の水分が出るので、餃子を作ったその日のうちに作ると良い。

プロフィール

映画監督/信友直子さん

【誕生日】1961年12月14日
【経歴】広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。1986年から映像制作に携わり、フジテレビ『NONFIX』や『ザ・ノンフィクション』などで数多くのドキュメンタリー番組を手がける。2009年、セルフドキュメント『おっぱいと東京タワー〜私の乳がん日記』がニューヨークフェスティバル銀賞、ギャラクシー賞奨励賞を受賞。2018年、初の劇場公開映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』が令和元年度の文化庁映画賞・文化記録映画大賞を受賞。
【そのほか】2018年から広島県呉市の観光特使も務めている。

Information

映画『ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん~』は、認知症の母と老老介護する父の暮らしを、ひとり娘である信友さんが丹念に記録した2018年公開のドキュメンタリー「ぼけますから、よろしくお願いします。」の続編。2022年3月から全国でロングラン公開されている。
©2022「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」製作委員会
全国順次公開中。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)