「最後の“おすそわけ”」俳優・タレント サヘル・ローズさん【インタビュー前編】~日々摘花 第40回~

「最後の“おすそわけ”」俳優・タレント サヘル・ローズさん【インタビュー前編】~日々摘花 第40回~
4歳の時にイラン・イラク戦争のさなか家族を失い、孤児となったサヘル・ローズさん。大学院生でレスキュー隊員ボランティアをしていたフローラ・ジャスミンさんが養母となり、日本で働いていた養母の夫(義父)を頼って8歳の時に来日しました。義父からの虐待などから彼女を守るためを飛び出し、困窮生活を送っていたサヘルさんとお母様を支えてくれたのは“ご近所さん”の温かさだったそうです。前編では、そんなサヘルさんが最近経験した、ある“ご近所さん”との別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

8歳で養母と来日し、いきなりの公園生活

−−来日当初は、埼玉県志木市で暮らしていたとか。

サヘルさん:はい。義父(養母の夫)が日本で働きながら大学に通っていて、志木のアパートに住んでいたんです。母はもともとテヘランの大学院生で、裕福な家の出身でした。レスキュー隊員のボランティアをしていた時に私と出会い、家族の反対を押し切って養母になってくれたことから当時勘当され、母が頼れるのは義父だけでした。
孤児院から引き取られた時のサヘルさん母娘
−−ところが、義理のお父様からの虐待に耐えかね、母子で家を飛び出したそうですね。

サヘルさん:暴力を振るうのはあってはならないことですが、義父にもさまざまな思いがあったのだろうと大人になった今は想像します。ともかく、母は私を守りたい一心で家を飛び出し、志木市内の公園で寝泊まりしながら小学校に通う生活が2週間ほど続きました。

この時、私たちを支えてくれたのは“ご近所さん”です。ありがたいことに、公園で暮らす私たちに鋭い視線を向ける人はいませんでした。それどころか、スーパーの試食コーナーのお母さんから「これ、食べて」とお菓子や果物をいただくことすらありました。

中でもお世話になったのは、小学校の“給食のおばちゃん”です。“おばちゃん”は私が給食を何度もお代わりしたり、ずっと同じ服を着ていることに気づいて声をかけてくれて、私たちを自宅に泊めてくれました。その上、母の仕事探しやビザの変更手続きを手伝ってくれ、身元保証人にまでなってくれたんです。

その後、私たちは母の職場に近い東京・浜田山に引っ越し、志木で暮らしたのは3カ月の短い時間でしたが、志木で出会った“ご近所さん”たちの温かさはずっと胸に残っています。

都心のマンションで始まった“ご近所づきあい”

−−今の日本では、都会ではとくに近所づきあいが薄れ、引っ越しの挨拶をしない人も増えていると聞きます。サヘルさんとお母様が来日当初に地域の方々に支えられたと伺って、今さらながらほっとしました。

サヘルさん:ありがたかったですね。当時はいい意味での“お節介”を地域がしてくれて、おたがいの顔が見えていた気がします。私自身、都心にある今のマンションに住んで14年になりますが、お名前を知っている“ご近所さん”は限られています。

そんななか、5、6年前から挨拶を交わすようになった、同じマンションに住む男性がいました。正直なところ、最初は怖かったんです。と言うのも、彼は静かで、気配をあまり感じられず、母がびっくりして声を上げてしまうほど突然現れるんですね。失礼ながら、「もしかして、私たちの後をつけているのかしら」と疑った時期もありました。

でも、時間が経つにつれ、彼がとても純粋で優しい人だということが伝わってきて。少しずつ会話を交わすうち、彼が90歳近いお母様の介護をひとりでしていることを知りました。介護のために50代半ばで仕事を辞めて生活が苦しく、夜10時ごろスーパーに行って値引きされたお惣菜を買い、自宅とスーパーを往復する日々を送っているようでした。

その姿を心配した母から彼におすそわけを持っていくよう言われ、何度か届けるうちにお母様ともお会いして楽しくおしゃべりしたり、私が出る舞台のチケットをプレゼントして彼が来てくださったりと“ご近所づきあい”が始まりました。

ところが、私の母が子宮がんで入院したり、コロナ禍も始まり、同じマンションのその友人と顔を合わせない時期が続いたんですね。久しぶりにお会いした時、お母様はすでに他界されていて、友人はひとりぼっちになっていました。

私も友人と同じ、母ひとり子ひとり。お母様を亡くされた友人の胸の内を思うと、言葉がありませんでした。そんな私に彼は、がんを患って体力と気力が落ちた私の母を気遣って、こう言ったんです。

「僕にできることがあったら、恩返しをさせて。サヘルさんのお母さんには本当に良くしてもらって、母も僕に友達ができたことを喜び、安心して空に旅立てたと思うから」

その言葉通り、友人は持病があって丈夫ではないのに、母が大事にしているバラ園で庭仕事を一生懸命手伝ってくれました。しばらくして友人が入院。退院後は母の料理を毎日のように届けたりして、再び楽しいご近所づきあいの時間が続いていたんです。でも、2022年の秋に入り、友人に母の料理を届けることができなくなってしまいました。

ひとりで逝かせてしまった友を、空を見上げて想う日々

−−何が起きたのでしょうか。

サヘルさん:アメリカで暮らしていた母の弟が事故で亡くなったんです。叔父は実家と疎遠になっていた母に唯一連絡をくれた家族。ふたりは2日に1回電話で数時間話し込むほど仲の良い姉弟でした。最愛の弟を突然亡くした母は現実を受け入れられず、心の病気になり、親戚からのお悔やみの電話にすら出なくなってしまいました。

私は人と関わることの大切さを母の後ろ姿から学んできました。その母が誰とも話そうとしなくなってしまって、「元気?」と聞かれるだけで泣き出してしまう。最初は「私がしっかりしないと母を支えられない」と明るく振る舞っていた私も、日が経つにつれ母の感情を受け止め切れなくなり、家に帰るのが憂鬱な毎日が続きました。

母はバラ園にも行かなくなり、異変に気づいた友人が母に電話をくれましたが、母は頑なに出ませんでした。私から友人に事情を話し、「お気持ちはありがたいし、本当にごめんなさい。しばらく連絡をしないでください」とお願いして……。お母様を亡くし、たったひとりで頑張っていた友人にとって母の料理がどんなに楽しみだったか知りつつも、おすそわけをお休みにしてしまったんです。

数カ月後、ようやく料理をするようになった母がふと友人のことを話題にし、「この料理、好きだったね。持って行ってあげて」と。友人の部屋のドアのところに料理を置きましたが、いつもなら来るはずの連絡が数日経ってもありませんでした。心配になり、おとなりに電話で友人のことを伺ってみたところ、1カ月前に部屋でひとり亡くなっていたと知りました。
サヘルさん:もう、涙が何日も止まりませんでした。悲しいのはもちろん、罪悪感がものすごくて。私たち母子と彼の関係は“ご近所さん”でそれ以上でもそれ以下でもありません。でも、確かに心は通い合っていて、私たちにとって彼は友人でした。母子家庭の私には、お母様を亡くし、自分も体が弱くてうまく仕事に復帰できず、たったひとりで懸命に生きていた彼の心細さも痛いほどわかっていたはずでした。

それなのに、母のことや仕事のことで自分が一杯一杯なのを言い訳に、私は「お元気ですか? ちゃんと食べていますか」と声をかけることもしなかった。「あの時、こうしていたら」と何度も悔やみました。変わった言い方ですが、今も全力で後悔しています。

お墓参りをしたかったけれど、身寄りがない人が亡くなった場合、遺骨などは自治体が管理し、ある程度時間が経った後に無縁墓に入るそうです。私がその場所を知ることはできません。でも、空を見上げて友人とお母様のお顔を思い浮かべながら、毎日心の中で手を合わせています。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
8歳のころ、母子で路上生活をしていた埼玉県・志木市の公園に行きたいです。土管で夜を過ごすような毎日だったけれど、義父の部屋を出て、あの公園で暮らしたからこそたくさんの出会いがあり、私たちの人生が変わった。だから、つらい思いをしている人たちに言いたいです。「飛び出すチャンスがあるなら、ためらわないで。苦しい場所に居続けないで」って。
※写真はイメージです

埼玉県・志木市の公園

来日して間もなく、2週間路上生活を送った公園。土管に寝泊まりし、公園の水道で顔を洗って小学校に通った。

プロフィール

俳優・タレント/サヘル・ローズ

【誕生日】1985年10月21日
【経歴】イラン出身。8歳で養母とともに来日。高校時代に受けたラジオ局「J-WAVE」のオーディションに合格し、芸能活動を始める。レポーター、ナレーター、コメンテーターなどさまざまなタレント活動のほか、俳優として映画やテレビドラマに出演し、舞台にも立つ。
【そのほか】芸能活動以外では、国際人権NGOの「すべての子どもに家庭を」の活動で親善大使を務めるほか、私的にも援助活動を続けている。公私にわたる福祉活動が評価され、2020年にはアメリカで人権活動家賞を受賞した。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)