「55年ぶんの伏線回収」プロデューサー おちまさとさん【インタビュー前編】~日々摘花 第34回~

コラム
「55年ぶんの伏線回収」プロデューサー おちまさとさん【インタビュー前編】~日々摘花 第34回~
「学校へ行こう!」「ガチンコ!」「空飛ぶグータン」など数々のヒット番組を生み出してきた、おちまさとさん。近年は企業や行政のブランディングでも手腕を発揮し、2012年から「厚生労働省イクメンプロジェクト推進委員会」のメンバーも務めています。前編では、視覚障害のお父様を支えながら、おちさんとお姉様を育ててくれたお母様との思い出と別れについてうかがいます。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

母の布団の中で聞いた、「オチない話」

−−おちさんのお母様は2021年3月に他界されたそうですね。

おちさん:数年前に他界した父と同じ89歳だったんですよ。僕が幼いころに父が視覚障害になり、母は一家の大黒柱として働き、父の看病もしながら、5歳上の姉と僕を育ててくれました。母はずいぶん苦労しましたから、父と母の間にもきっといろいろな思いがあったはずです。

でも、結局は同じ歳で旅立つなんて、夫婦というのは面白いものですね。位牌もふたりでひとつにして、納骨の日、お墓に仲良く並んだ両親のお骨を前に、父と母はやっぱり結ばれているんだなと思いました。
−−おちさんにとってお母様はどのような存在でしたか?

おちさん:母は家族を養うためにいろいろな仕事をして、朝から晩まで働き通し。毎日、とにかく大変そうでしたから、幼いころから、母にこれ以上負担はかけられない、という思いがありました。だから、僕も姉も小さいころから自分のことはなるべく自分でやろう、という感じでしたね。

でも、本当はもっと一緒にいたかったし、素直に「抱っこして」と言いたかった。幼稚園のころ、僕が一番楽しみにしていたのは、日曜日の朝。当時、母の仕事は日曜日だけがお休みでした。子どもながらに「ゆっくり寝かせてあげたいけど、ちょっとくらいならいいかな」なんて思いながら母の布団に潜り込むと、目覚めた母が作り話を聞かせてくれるんです。

ウルトラマンの話をよくしてくれたのですが、でたらめでオチもなく、どうしようもなくつまらないんですよ(笑)。でも、楽しくて、大好きな時間でした。

この話を母にしたことはなかったのですが、母のお葬式の最後、喪主のあいさつで初めて打ち明けました。「つまらない作り話でも、楽しかった。もっと甘えたかった」って。本当は母が生きている間に言いたかったけれど、やっぱり言えませんでした。

いつも「そこじゃない」母のほめ言葉

−−親子だからこそ、相手への思いを素直に伝えられなかったりもしますよね。

おちさん:大人になってからの僕と母は歯車が噛み合わないことが多く、けんかや言い合いはしょっちゅう。僕も素直じゃなかったかもしれませんが、母も母で、笑ってしまうくらいピントがずれているんです。

例えば、20歳の時に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の放送作家オーディションに合格してテレビの世界に入り、駆け出し時代を経て、番組のスタッフロール(映像作品で表示される制作関係者の情報)に初めて僕の名前が流れることになった時のこと。

幼い子がお母さんにほめてもらいたい時に、「見て、見て」とよく言いますが、僕は子どもこのころからそういうことがほとんどありませんでした。でも、この時ばかりは本当にうれしくて、思わず母に電話して、「見てね」と言ったんです。

ところが、スタッフロールに自分の名前があることを確認した後、母に再び電話をかけて「見た?」と聞いたら、「何を?」という答えが返ってきました。腹が立つやら、悲しいやら。もう2度と母には電話しないと心に誓いました。まあ、しばらくすると、何事もなかったように話すんですけど……。
おちさん:30歳の時にプロデューサーとして独立し、会社をつくった時もそうです。母に話したら、開口一番、「大丈夫なの?」と言われ、萎えました。母が息子を心配する気持ちもわかります。でも、まずは「おめでとう」「すごいね」って、母だけには言ってほしかった。それでまた決裂ですよ(笑)。

馬鹿みたいな話ですが、息子というのはいつだって母にほめてほしいものなんですよね。母の名誉のためにお話ししておきますと、妻曰く、母は妻とふたりの時や電話では母なりの言葉で僕のことをほめてくれていたらしいんですよ。でも多分、僕からすると「そこじゃない」と突っ込みたくなるようなヘンなところをほめてくれていたんでしょうね。

母がいなくなった今では、ピント外れの母の言葉に腹を立てたあの時の感情すら、切なく、温かく感じます。

終の住処に残された、一冊のノート

−−お母様が亡くなったのはコロナ禍2年目。病院での面会制限などつらいこともあったのではないでしょうか。

おちさん:母は肺を患って2021年の年明けに入院しましたが、すでに治療の手立てがなく、お医者様から余命3カ月から半年と宣告を受けました。

その時に、残された時間をどう過ごすのが、母にとって一番いいのかなと考えたんですね。医療体制の充実を考えれば入院を続けるのが安心かもしれないけれど、急性期病院には長期入院できないし、ターミナルケアに対応している病院に転院するにしても、コロナ禍の影響で家族とあまり会えなくなってしまうような状況でした。

母には苦労ばかりさせたから、最後くらいそばにいたいし、笑っていてもらいたい。そう考えて病院に相談したところ、24時間看護でターミナルケア対応の介護施設が僕の自宅から歩いて行ける場所に近々オープンすると教えていただいて、その日のうちに家族で見学に行きました。

すると、スタッフの雰囲気がすごく良くて、部屋もきれいだし、食事もすごくおいしそうだったんですよ。母は食べることが好きだったし、ありがたいことに最後まで食欲があったので、妻や娘も「ここなら、おばあちゃんも喜んでくれる」と太鼓判を押してくれ、即決。母は2021年2月末に退院し、介護施設で暮らしはじめました。
−−お母様の反応はいかがでしたか?

おちさん:「天国だ」と言っていました。お風呂も気持ちいいし、最高って。

娘や息子もそこを気に入って、「おばあちゃんのところまで散歩に行こう」とうれしそうに言い、みんな笑顔であと半年、少なくとも初夏まで楽しく過ごそうと思っていたなんです。でも、施設に入って2週間後、母はポンッと旅立ってしまいました。

コロナ禍ということもあって親族だけの小さなお葬式ではありましたが、喪主を務め、みんなで母を見送って…。お世話になった介護施設で母の部屋を片づけていた時、一冊のノートが目に留まりました。

ノートを開くと、綴られていたのは、母から姉と僕それぞれに宛てたメッセージでした。「まあくんへ」から始まる僕への手紙には、僕たち家族のそばで過ごした最後の日々について、「すべてが素晴らしかった」とこと細かに書かれていました。

おいおい、マジかと思いましたね。なんだよ、僕が生まれて55年間、母がピントの外れたほめ方ばかりしてきたのは、ここで泣かせるための伏線回収だったのかよ、って。

狙っているんだか、そうでないんだか。本当に母は、いちいちそういうところのある人でした。だいたい終の住処に真新しいノートなんて残して、息子に見つかることも計算づくですよね。見え見えで癪に触ります。

でも、この気持ちをぶつける相手がいない。それがさみしいです。

〜EPISODE:癒しの隣に〜

沈んだ気持ちを救ってくれた本や音楽は?
音楽も本も好きですが、「どうしよう、どうしよう」となった時はとにかく走るに限る、と思っています。僕は毎日5kmランニングをするのですが、どんな悩みごとがあっても、走りはじめると「大丈夫かも」って思えるんですよ。走ると手足を動かしますし、汗もかくから、脳が忙しくなって、悩んでいるどころじゃなくなるのかもしれませんね。

シックスパッド

毎日のランニングを16年間続けているおちさん。最近はシックスパッドを巻き、体幹を鍛えながら走っているそうです。おちさんが使っているシックスパッドは「SIXPAD Powersuit Core Belt」(株式会社MTG)。20HZと4HZの2種類のモードを搭載し、集中的に鍛えるだけでなく、ウォームアップやストレッチ、クールダウンとの併用もできる。2023年4月末には新モデルが発売。
おちさん愛用の「SIXPAD Powersuit Core Belt」

プロフィール

プロデューサー/おちまさとさん

【誕生日】1965年12月23日
【経歴】20歳のとき「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の放送作家オーディションに合格。その後「学校へ行こう!」「ガチンコ!」「グータン」「桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜」など数々のヒット番組の企画・プロデュースを手がける一方、サイボウズ株式会社をはじめさまざまな企業や行政のブランディングを展開。その活躍は多岐に渡る。書籍多数。二児の父親。16年間毎日5kmのランニングとトレーニングがルーティン。
【そのほか】厚生労働省イクメンプロジェクト推進委員会メンバー
ブログ http://ameblo.jp/ochimasato
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)