「重過ぎた父の遺言」タレント 松本明子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第29回~
コラム
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
第29回のゲストは、松本明子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
第29回のゲストは、松本明子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
親が亡くなった後、実家をどうすればいいんだろう、と悩まれている方もいらっしゃるのではないでしょうか。テレビやラジオで活躍する裏で、25年空き家だった実家を維持し続け、その処分に悪戦苦闘した経験を持つ松本さん。前編では実家を娘に託した亡きご両親への思いをうかがいました。
25年間空き家だった実家に注ぎ込んだお金は約1,800万円
−−松本さんは2003年にお父様を、2007年にお母様を亡くし、香川県高松市のご実家を2018年に売却されました。売却額約600万円に対し、空き家だった25年間にかけた維持費の総額は約1,800万円にのぼるとか。
松本さん :はい、間違いないです。まずは少し経緯をお話ししますと、父が念願のマイホームを建てたのは1972年。私は6歳からその家で暮らし、中学卒業と同時に歌手を目指して上京。17歳でデビューしたものの、鳴かず飛ばずでしたが、20代半ばからようやく「進め!電波少年」「DAISUKI!」などの番組にたくさん出演させていただけるように。「そろそろ親孝行を」と考え、27歳の時に両親を東京に呼び寄せました。
当時、両親は60代半ば。10歳上の兄も東京で暮らしていましたし、ふたりとも上京は「待っていました」という感じでした。ただ、高松の家のことは、売ることも貸すこともまったく考えていなかったように思います。生活用具もほとんどを実家に残していましたし、元気なころは年に2、3回夫婦で高松に戻って、家の風通しをしたり、庭木の手入れもしていました。
−−待ちに待って東京で暮らしはじめたのにもかかわらず、ご両親はなぜご実家をそのまま残されたのでしょうか。
松本さん:高松には先祖代々のお墓もありますし、一番大きな理由は、私のことが心配だったんでしょうね。芸能界は浮き沈みが激しいから、この先明子の仕事が減れば、娘に負担をかけないよう自分たちは高松に帰らなければいけない。それに、家さえ残しておけば、万が一の時に娘が帰れる場所があると考えたのでしょう。
両親と暮らしはじめて間もなく、父から「高松の家はお前に継いでほしい」と言われました。本来は長男である兄が継ぐのが筋かもしれませんが、高松の家ができた時、兄はすでに高校1年生。東京の大学に進学して実家には3年弱しか暮らしておらず、そのまま就職も結婚もしてすでに家を建てていました。それで、高松の家のことは私に任せるということになり、父の生前に財産分与を済ませたんです。
実家を私が継ぐことになってからは、光熱費や固定資産税、火災保険といった年間27万円ほどの維持費は自分で払うようにしました。父の他界後は庭木の手入れを地域のシルバー人材センターにお願いして維持費は年間37万円に。2011年の東日本大震災後は「まさかの時の避難所に」とリフォームをして約350万円。これに売却のためのリフォーム代約250万円と、家財道具の処分費などを合わせると、実家のために使ったお金は最終的に1,800万円を超えました。
松本さん :はい、間違いないです。まずは少し経緯をお話ししますと、父が念願のマイホームを建てたのは1972年。私は6歳からその家で暮らし、中学卒業と同時に歌手を目指して上京。17歳でデビューしたものの、鳴かず飛ばずでしたが、20代半ばからようやく「進め!電波少年」「DAISUKI!」などの番組にたくさん出演させていただけるように。「そろそろ親孝行を」と考え、27歳の時に両親を東京に呼び寄せました。
当時、両親は60代半ば。10歳上の兄も東京で暮らしていましたし、ふたりとも上京は「待っていました」という感じでした。ただ、高松の家のことは、売ることも貸すこともまったく考えていなかったように思います。生活用具もほとんどを実家に残していましたし、元気なころは年に2、3回夫婦で高松に戻って、家の風通しをしたり、庭木の手入れもしていました。
−−待ちに待って東京で暮らしはじめたのにもかかわらず、ご両親はなぜご実家をそのまま残されたのでしょうか。
松本さん:高松には先祖代々のお墓もありますし、一番大きな理由は、私のことが心配だったんでしょうね。芸能界は浮き沈みが激しいから、この先明子の仕事が減れば、娘に負担をかけないよう自分たちは高松に帰らなければいけない。それに、家さえ残しておけば、万が一の時に娘が帰れる場所があると考えたのでしょう。
両親と暮らしはじめて間もなく、父から「高松の家はお前に継いでほしい」と言われました。本来は長男である兄が継ぐのが筋かもしれませんが、高松の家ができた時、兄はすでに高校1年生。東京の大学に進学して実家には3年弱しか暮らしておらず、そのまま就職も結婚もしてすでに家を建てていました。それで、高松の家のことは私に任せるということになり、父の生前に財産分与を済ませたんです。
実家を私が継ぐことになってからは、光熱費や固定資産税、火災保険といった年間27万円ほどの維持費は自分で払うようにしました。父の他界後は庭木の手入れを地域のシルバー人材センターにお願いして維持費は年間37万円に。2011年の東日本大震災後は「まさかの時の避難所に」とリフォームをして約350万円。これに売却のためのリフォーム代約250万円と、家財道具の処分費などを合わせると、実家のために使ったお金は最終的に1,800万円を超えました。
父の最後の言葉は「明子、実家を頼む」
−−売却額が600万円ですから、1,200万円の赤字ですね。
松本さん:両親が他界してから実家じまいをするまで10年あまり。その間、実家に寝泊まりすることは数えるほどしかなく、もっと早く動いていればと思いました。ただ、踏ん切りがつかなかったんです。これは、父の最後の言葉が大きかったです。
両親が上京して5年後、私は結婚をして埼玉の夫の実家で暮らすようになりましたが、ふたりは高松には帰らず、私の結婚から5年ほどして父が倒れました。お酒が大好きで、最後は肝臓を悪くしたのですが、それまでも心臓病や糖尿病を患い、病気のフルコースでした。
亡くなったのは、2003年の8月末。朝の生活情報番組「はなまるマーケット」の司会の故・岡江久美子さんが夏休みで、ピンチヒッターを務めた日でした。倒れて入院した日、医師から母と私が呼ばれて余命2週間と言われ、その通りに亡くなりました。
父も自分の命が長くないことをわかっていたのでしょう。亡くなる1週間ほど前、私が寝袋を病室に持ち込んで2日間泊まったのが生前の父と過ごした最後の時間になったのですが、その時にじっと私を見つめ、「明子、実家を頼む」と声を絞り出すように言いました。
−−ああ、最後にその言葉は…。
松本さん: やっぱり重かったですね。高松の家は父が約3,000万円のローンを組み、わざわざ宮大工さんに頼んで釘などの金属を一切使わない「木組み」という伝統的な工法で建てた頑丈な家でした。庭には大きな庭石や石灯籠を置き、石垣もありました。あの家は父にとってまさに城。私のためであると同時に、自分が生きた証としてその城を残したかったんだと思います。
母も父と思いは同じで、父の他界後、高松の家は母が相続しましたが、兄の了承を取ったうえで、実家や家財道具を私に残すと定めた公正遺言証書を作成しました。
一方、私には実家の維持費に加えて両親と暮らした東京の家のローン返済もありました。両親の愛情をありがたく感じつつも、正直、経済的には楽ではなく、父や母が生きている間はともかく、将来的には実家を処分せざるを得ないかなと思ったりもしていたんです。
ところが、父から「頼む」と遺言を残され、簡単に実家を手放すわけにはいかなくなってしまいました。そうこうするうちに、父の他界から4年後、2007年11月に母が亡くなったんです。
うちは家族の仲が良く、とくに末っ子の私と両親は「親離れ・子離れができない親子」でしたから、両親を亡くした私の悲しみは自分でも驚くほど。実家には掃除や換気のためにたまに帰っていたものの、両親の遺品を見るだけで泣けてくるんです。母の他界から3年ほどは両親を亡くした事実に向き合えず、実家じまいのこともとても考えられませんでした。
松本さん:両親が他界してから実家じまいをするまで10年あまり。その間、実家に寝泊まりすることは数えるほどしかなく、もっと早く動いていればと思いました。ただ、踏ん切りがつかなかったんです。これは、父の最後の言葉が大きかったです。
両親が上京して5年後、私は結婚をして埼玉の夫の実家で暮らすようになりましたが、ふたりは高松には帰らず、私の結婚から5年ほどして父が倒れました。お酒が大好きで、最後は肝臓を悪くしたのですが、それまでも心臓病や糖尿病を患い、病気のフルコースでした。
亡くなったのは、2003年の8月末。朝の生活情報番組「はなまるマーケット」の司会の故・岡江久美子さんが夏休みで、ピンチヒッターを務めた日でした。倒れて入院した日、医師から母と私が呼ばれて余命2週間と言われ、その通りに亡くなりました。
父も自分の命が長くないことをわかっていたのでしょう。亡くなる1週間ほど前、私が寝袋を病室に持ち込んで2日間泊まったのが生前の父と過ごした最後の時間になったのですが、その時にじっと私を見つめ、「明子、実家を頼む」と声を絞り出すように言いました。
−−ああ、最後にその言葉は…。
松本さん: やっぱり重かったですね。高松の家は父が約3,000万円のローンを組み、わざわざ宮大工さんに頼んで釘などの金属を一切使わない「木組み」という伝統的な工法で建てた頑丈な家でした。庭には大きな庭石や石灯籠を置き、石垣もありました。あの家は父にとってまさに城。私のためであると同時に、自分が生きた証としてその城を残したかったんだと思います。
母も父と思いは同じで、父の他界後、高松の家は母が相続しましたが、兄の了承を取ったうえで、実家や家財道具を私に残すと定めた公正遺言証書を作成しました。
一方、私には実家の維持費に加えて両親と暮らした東京の家のローン返済もありました。両親の愛情をありがたく感じつつも、正直、経済的には楽ではなく、父や母が生きている間はともかく、将来的には実家を処分せざるを得ないかなと思ったりもしていたんです。
ところが、父から「頼む」と遺言を残され、簡単に実家を手放すわけにはいかなくなってしまいました。そうこうするうちに、父の他界から4年後、2007年11月に母が亡くなったんです。
うちは家族の仲が良く、とくに末っ子の私と両親は「親離れ・子離れができない親子」でしたから、両親を亡くした私の悲しみは自分でも驚くほど。実家には掃除や換気のためにたまに帰っていたものの、両親の遺品を見るだけで泣けてくるんです。母の他界から3年ほどは両親を亡くした事実に向き合えず、実家じまいのこともとても考えられませんでした。
宮大工が建てた「城」はゼロ円査定
−−その松本さんが、実家じまいを決意されたのはなぜだったのでしょうか。
松本さん:2017年1月に「クローズアップ現代+」に出演したのがきっかけでした。その日のテーマは「実家の片づけ」。その大変さを実感し、実家をあのままにしておくと、将来、高松で暮らしたこともないひとり息子に迷惑をかけることになってしまうと思いました。
母の他界から10年経ち、実家のことで私が右往左往するのを見ていた夫や義母が「もう手放してもいいのでは」と言葉をかけてくれたことも背中を押しました。
−−その後の顛末はテレビ番組やご著書で語られていますが、不動産屋さんに査定してもらった買取価格は建物の価格はゼロで、土地の価格が200万円。更地にした方が売れやすくなりますが、その費用に500万円かかると知って驚かれたそうですね。
松本さん:これは売れないかもと思い、親戚に譲り受けてもらえないかと聞いたところ、当然ながら、手を挙げる人はいませんでした。そこで、地元の讃岐うどんチェーンにまで話を持って行ったのですが、丁重にお断りされ……。
わらにもすがる思いで香川県が運営する「空き家バンク」に売却と賃貸の両方で登録したところ、最初はこちらの希望額とはほど遠い問い合わせばかり。宮大工が建てた父の城が、と切なかったです。
でも、登録して3カ月目に希望額で買ってくれる方が現れたんです。お仕事の都合で長く関西で暮らしてきた、高松出身のご夫婦でした。老後は故郷に住みたいと家を探していたそうです。リフォームをして設備が新しかったことと、建物がしっかりしていることをとても気に入ってくださり、家の引き渡しの時に「少なくても30年は住むからね」と言ってくださいました。
松本さん:2017年1月に「クローズアップ現代+」に出演したのがきっかけでした。その日のテーマは「実家の片づけ」。その大変さを実感し、実家をあのままにしておくと、将来、高松で暮らしたこともないひとり息子に迷惑をかけることになってしまうと思いました。
母の他界から10年経ち、実家のことで私が右往左往するのを見ていた夫や義母が「もう手放してもいいのでは」と言葉をかけてくれたことも背中を押しました。
−−その後の顛末はテレビ番組やご著書で語られていますが、不動産屋さんに査定してもらった買取価格は建物の価格はゼロで、土地の価格が200万円。更地にした方が売れやすくなりますが、その費用に500万円かかると知って驚かれたそうですね。
松本さん:これは売れないかもと思い、親戚に譲り受けてもらえないかと聞いたところ、当然ながら、手を挙げる人はいませんでした。そこで、地元の讃岐うどんチェーンにまで話を持って行ったのですが、丁重にお断りされ……。
わらにもすがる思いで香川県が運営する「空き家バンク」に売却と賃貸の両方で登録したところ、最初はこちらの希望額とはほど遠い問い合わせばかり。宮大工が建てた父の城が、と切なかったです。
でも、登録して3カ月目に希望額で買ってくれる方が現れたんです。お仕事の都合で長く関西で暮らしてきた、高松出身のご夫婦でした。老後は故郷に住みたいと家を探していたそうです。リフォームをして設備が新しかったことと、建物がしっかりしていることをとても気に入ってくださり、家の引き渡しの時に「少なくても30年は住むからね」と言ってくださいました。
−−天国のご両親も喜ばれているのではないでしょうか。
松本さん:そうだといいな、と思います。「人手に渡ったとはいえ、家を残すことができたよ」と両親のお墓に報告しました。お墓と言えば、松本家代々のお墓は山の奥にあり、コロナ禍の影響で2年半行けていません。「近くにあれば」とつくづく思いました。
私も兄もこの先高松で暮らすことはないでしょうから、子どもたちに大変な思いをさせないよう東京にお墓を移すことも検討しています。ただ、親戚の皆さんの気持ちも大事にしたいですから、こればかりは私たちの一存では決められず、これからの課題です。
それにしても、実家じまいは大仕事でした。当時、私は51歳でしたが、5年経った今、同じことをするとなったら、やり遂げる自信がありません。実家のことが気になっている方には、「私のようにしくじらないよう、なるべく早く行動を起こして!」と声を大にして言いたいです。
松本さん:そうだといいな、と思います。「人手に渡ったとはいえ、家を残すことができたよ」と両親のお墓に報告しました。お墓と言えば、松本家代々のお墓は山の奥にあり、コロナ禍の影響で2年半行けていません。「近くにあれば」とつくづく思いました。
私も兄もこの先高松で暮らすことはないでしょうから、子どもたちに大変な思いをさせないよう東京にお墓を移すことも検討しています。ただ、親戚の皆さんの気持ちも大事にしたいですから、こればかりは私たちの一存では決められず、これからの課題です。
それにしても、実家じまいは大仕事でした。当時、私は51歳でしたが、5年経った今、同じことをするとなったら、やり遂げる自信がありません。実家のことが気になっている方には、「私のようにしくじらないよう、なるべく早く行動を起こして!」と声を大にして言いたいです。
~EPISODE:追憶の旅路~
人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
高松市郊外の高台に建つ実家からいつも眺めていた、屋島に登りたいです。屋島の山頂からは瀬戸内海や高松の市街地が一望できて、夕焼けもとてもきれい。子どものころから見慣れた景色ですが、瀬戸内海を見るとやはりほっとしますね。私の原点です。
香川県高松市屋島
高松市北東部にある屋島は水平な高岩層におおわれ、周囲の一部を急峻な崖で囲まれたテーブル状の高地。かつては島で、平安時代末期には源平合戦の舞台にもなった。山登りやハイキングが楽しめるほか、展望台や美術館、水族館などもあり、市民に親しまれている。
プロフィール
タレント/松本明子さん
【誕生日】1966年4月8日
【経歴】香川県出身。1982年オーディション番組「スター誕生!」に合格し、翌年、歌手としてデビュー。その後、元祖「バラドル」として人気バラエティー番組「DAISUKI!」「進め!電波少年」(日本テレビ系)などに出演し、人気を確立。女優としても活躍している。
【趣味】料理、節約
【そのほか】副業として「軽キャンピングカー」専門のレンタル業も手がけている。
オフィスアムズ https://officeams.com/
【誕生日】1966年4月8日
【経歴】香川県出身。1982年オーディション番組「スター誕生!」に合格し、翌年、歌手としてデビュー。その後、元祖「バラドル」として人気バラエティー番組「DAISUKI!」「進め!電波少年」(日本テレビ系)などに出演し、人気を確立。女優としても活躍している。
【趣味】料理、節約
【そのほか】副業として「軽キャンピングカー」専門のレンタル業も手がけている。
オフィスアムズ https://officeams.com/
Information
松本さんの著書『実家じまい終わらせました! 大赤字を出した私が専門家とたどり着いた家とお墓のしまい方』。実家じまいを先延ばしにし、大赤字を出してしまった松本さん自身の体験談を具体的に語るとともに、3人の専門家に「空き家になった実家の後始末」「家財や遺品の整理」「墓じまい」について松本さんがそれぞれ取材した内容を対談形式でまとめた実用書。
(取材・文/泉 彩子 写真/鈴木 慶子)