「下から2番目に生まれて」 タレント・アーティスト(元大関) 小錦八十吉さん【インタビュー前編】~日々摘花 第28回~

コラム
「下から2番目に生まれて」 タレント・アーティスト(元大関) 小錦八十吉さん【インタビュー前編】~日々摘花 第28回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第28回のゲストは、元大関の小錦 八十吉さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
元大関で、今はタレントとして活躍する小錦八十吉さん。同郷の高見山にスカウトされて相撲部屋入門のために米国・ハワイ州から来日し、2022年6月で40周年を迎えました。前編では小錦さんを含め10人の子どもたちを育てたご両親からの教え、そして、離れて暮らしたお母様の看取りについてお話しいただきました。

家族との食事では、今も僕の席は一番下

ーー小錦さんはハワイ・オアフ島ご出身。ご自身を含め兄弟姉妹10人の大家族で育ったそうですね。

小錦さん:僕は下から2番目。大家族はサモア人の家庭ではめずらしくないよ。うちの両親はサモア出身。僕が生まれる4年前に、当時アメリカが統治していた東サモアから兄や姉たちを連れて移住してきたんだ。その年はハワイがアメリカ合衆国の50番目の州に認定された年。両親が移住を決意したのは、「子どもたちにいい教育を受けさせたい」という一心からだったんだと思う。

うちは上下関係が厳しくて、両親はもちろん兄や姉たちの言うことは絶対。子供たちは学校から帰ったら掃除や料理などそれぞれに与えられた家事をやって、終わったら遊びに行ってもいいんだけど、パパが帰ってくる18時にはみんな揃っていないとダメ。

食事も両親と一緒のテーブルにつくなんてあり得なかった。両親が食べ終わった後、兄や姉たちから順番に床に座って食べるんだ。大きくなってからは床には座らないけれど、家族と食事をする時は今も僕の席は一番下だよ。
ーー日本で成功した今も、ですか。

小錦さん:もちろん。相撲で優勝したり、大関になっても、テレビに出ても、関係ない。うちにはうちのルールがあって、僕は家族の中ではずっと下っ端。それがひっくり返ることはあり得ない。だって、玄関に入ったら、そこのうちのルールに従うのが当然でしょ。

それに、よく考えてみて。成功したからってちやほやする方がおかしな話だよ。それこそ死ぬ時はみんな平等。誰だって最後は棺に入るんだから。

両親ともしつけには厳しかったけれど、礼儀、優しさ、感謝の気持ち……守り続けていかなければいけない大切なことをきちんと僕に教えてくれた。あのふたりの教えがあったから、今、自分はここにいる。それを疑ったことは一度もないよ。

福岡の街で呼び止められる僕を不思議そうに見ていた両親

ーー小錦さんは高校ではフットボール選手として活躍。CIA職員やFBI捜査官に憧れ、大学で法律を学びたいとお考えになっていたとか。

小錦さん:うちの兄弟姉妹は、僕以外はみんな大学に進学した。パパが一生懸命働いて学費を稼いでくれたんだ。サモアからの移民で英語も話せず、国の援助もないところからスタートし、9人の子どもを大学に進学させるなんて、ちょっとやそっとのことではできないはずだよ。

だけど、パパが苦しそうな表情を見せたことは生涯一度もなかった。パパは威厳があって怒った時は震え上がるほど怖かったけど、心が優しくて「家族が趣味」みたいな人。家族のために働くことはパパにとって喜びだったと思う。

ただ、兄弟姉妹の中で遅く生まれてきた僕としては、両親にこれ以上負担をかけたくないという気持ちが強かった。だから、高見山さん(元関脇・渡辺 大五郎さん)に誘われた時、「相撲」という単語すら知らなかったのに日本に行くことを決めたんだ。

わからないことばかりだったから、最初は断ったんだよ。でも、高見山さんはいい人だったし、飛行機代から住むところや食事まで全部用意してくれると聞いて、「たとえ失敗しても、誰にも迷惑がかからない」と思った。だから、とりあえず飛び込んだ。若かったからできたんだね。
ーーご両親はどのようにおっしゃいましたか。

小錦さん: 絶句だよ。「まわし」も「土俵」も知らない18歳が、行ったこともない国に行くんだから、両親にまともな説明ができるはずもない。心配するのは当然だよね。日本に行く日には両親がホノルル空港(現・ダニエル・K・イノウエ国際空港)まで車で送ってくれたけど、ママは最後まで泣きっぱなしだった。その姿を見て心が痛かったし、「家族をここまで悲しませたからには、中途半端なことはできない」という思いも湧いてきたよ。

ーー小錦さんは高砂部屋に入門した翌年に十両に昇進。その翌年、1984年には初土俵から12場所にして新入幕を果たしました。ご両親も喜ばれたのではないでしょうか。

小錦さん:息子が元気でいることはすごく喜んでいたし、家族みんなで応援してくれたよ。ただ、当時のハワイでは相撲のことはあまり知られていなかったから、十両昇進も入幕もあまりよくわかっていなかった。

新十両の時に両親が初めて来日して福岡場所を見に来てくれたんだけど、街中で知らない人が「小錦」の名前を呼ぶのを聞いて、「なんでみんなお前の名前を知っているんだ」って不思議がっていたよ(笑)。大関昇進(1987年)あたりでようやく少し、僕が力士としてどのくらいの位置にいるのかを理解したんじゃないかな。

ママの命をつないでいた管が抜かれた瞬間

ーーお母様が2002年8月に、お父様が2020年1月に他界されたとうかがいました。さみしいですね。

小錦さん:かなうことなら、今も会いたい。ただ、死は避けることのできないもの。引き止めようがないのだから、「さよなら」の時は温かく送ってあげたいというのが僕の考えなんだ。亡くなったことを嘆き悲しんでも相手は浮かばれない。大事なのはその人が生きている間にどう関わるか、だと思う。

そういう意味では、両親との別れに悔いはなかったよ。離れて暮らしてはいたけれど、僕にできることは何でもしたし、相撲を引退してからは、時間を見つけてはハワイに帰ってパパやママと一緒に過ごした。両親に対しては、僕だけではなくて家族みんな同じ思いだったと思う。生きていれば、それぞれの事情はあるけれどね。

ママはもともと体が弱くて、晩年は腎臓病を患って12年間人工透析を受けていたんだ。ママも頑張ったし、パパや週3日の透析に付き添っていた妹も大変だったと思う。家族みんな本当によくママを支えてくれていたよ。僕の場合はやっぱり会える機会が限られていたから、日本に戻るたびに「これが最後かもしれない」という思いが頭の後ろの方にいつもぶらぶらしてた。

危篤の知らせを受けたのは、ちょうどフジテレビの「笑っていいとも!」に出演していた日。妹から電話をもらってすぐに飛行機に飛び乗って、僕が病院に着いた時にはもう意識はなかった。でも、生きていてくれたんだ。

家族全員が揃ったということで、医師から延命措置について聞かれて、「これ以上はママがかわいそうだから」ということでママの身体につながれていた管を抜いてもらった。その瞬間の「本当に逝ってしまった」という感覚が今も忘れられないよ。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
白いごはんとシーチキンにマヨネーズ。以上!「ツナ+マヨネーズ」は日本で暮らしはじめたころに自分で思いついた組み合わせ。当時はまだコンビニの「ツナマヨネーズおにぎり」も発売されていなかった。初めてコンビニで見かけた時、「俺の方が先に思いついた」って思ったのを覚えているよ(笑)

ツナマヨネーズおにぎり

手巻おにぎり ツナマヨネーズ(セブン-イレブン)
「ツナ+マヨネーズ」の組み合わせのコンビニおにぎりが初めて発売されたのは1983年で、販売元は「セブン-イレブン」。同社と取引のあったメーカーの担当者の小学生の息子がごはんにマヨネーズをかけて食べていたことが商品開発のヒントとなったという。当時ははごろもフーズの「シーチキン」を使用していたため、「シーチキンマヨネーズ」の商品名で販売された。
※「シーチキン」は、はごろもフーズ株式会社の登録商標です。

プロフィール

タレント・アーティスト(元大関)/小錦八十吉さん

【誕生日】1963年12月31日
【経歴】1982年にハワイ大学付属高校卒業後、高見山にスカウトされ高砂部屋に入門。1987年5月場所後、大関に昇進し、1989年11月場所幕内初優勝。1997年11月場所を最後に相撲界を引退。現在はタレント、アーティスト、ミュージシャンとして活動し、テレビ番組やCMに多数出演。ハワイアンシンガーとしてアルバムも13枚出している。
【ペット】
ゴールデンレトリバーの親子Pani(8歳・♂)とFala(9カ月・♂)
【そのほか】
■Instagram https://www.instagram.com/konishikiyasokichi/​
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)