「戦地の兄から届いた、最初で最後の手紙」作家 志茂田景樹さん【インタビュー前編】~日々摘花 第21回~
コラム
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
第21回のゲストは、作家 志茂田景樹さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
第21回のゲストは、作家 志茂田景樹さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
歴史小説や推理小説などさまざまなジャンルの小説を書きながら、テレビでも活躍してきた直木賞作家の志茂田さん。病気や怪我に見舞われて車椅子生活となった現在も次々と著書を出版。自由で個性的なファッションやSNSでの発言が若い人たちにも注目され、ツイッターのフォロワー数は40万人を超えます。前編では、第二次世界大戦中、志茂田さんが5歳の時に他界されたお兄様との思い出をお話いただきました。
小金井の空の下、兄とふたりで見上げた空中戦
ーーこれまでの人生で一番印象深い永遠の別れは、どなたとのお別れでしょうか。
志茂田さん:僕が5歳の時に20歳で旧満州の荒野で戦死した兄との別れです。兄は旧制商業学校を卒業後、千葉県成田市にあった大蔵省税務講習所(現在の税務大学校)に入所しました。後に両親に聞くと、1943年4月のことだったそうです。兄は寮生活をしていましたが、2年の修業年限を半年繰り上げて卒業し、1944年11月に東京都小金井町(現・小金井市)の旧国鉄官舎の我が家に戻ってきました。兄には渋谷税務署勤務の辞令が下りていましたが、繰り上げ卒業の目的は兵隊を召集することでした。
すでに戦局は厳しく、兄が戻ってきて間もなく東京で初めての空襲がありました。自宅から2キロほど離れた場所にあった中島飛行機武蔵製作所が、B29の大編隊による爆撃を受けたんです。終戦の年になると、我が家の上空にも敵戦闘機がブンブン飛び回り、庭から空中戦を眺めることもありました。
兄は年明けに召集令状を受け取り、3月下旬に兵営に入ることになっていましたから、2月ごろだったでしょうか。西寄りの空で敵味方1機ずつの戦闘機が組んず解れつの巴戦を繰り広げ、1機が煙を引いて落ちたんです。そのとたん、兄が「やった!」と叫んで大きな拍手をしました。兄の横顔を仰ぎ見ると、とても晴れやかな表情でした。
ところが、次の瞬間、兄は顔を曇らせて拍手をやめました。落ちていく戦闘機に日の丸がついていたからです。その戦闘機から白いパラシュートが飛び出し、兄がまた拍手をしたので、僕も手をたたきました。兄の横顔の表情が変わっていくさまが目に焼きついています。
−−お兄様はどのようなお人柄でしたか。
志茂田さん:兄の蔵書はほとんどが歌集と詩集で、僕が少し大きくなってからそのうちの一冊を開くと、押し花が挟まれていました。また、戦中で物資が乏しく、紙が貴重だったのでしょう。詩集の余白には自作の短歌などが書き残されていました。それらを見る限り、命を大切に、何があっても青春を悔いなく生きようという、ひたむきさを感じます。軍国青年ではなかったと思います。
兄は4人きょうだいの一番年長で、次に姉がふたりいて、僕は末っ子。幼いころの僕は体が弱く、兄は何かと心配をして僕の面倒を見てくれました。ふたりで過ごした時間の中で、僕にとってとりわけ大切な思い出があります。兵営に入る日が迫ってきたころ、兄が僕にカタカナとひらがなを教えてくれたんです。
結露した窓ガラスに兄が指で文字を書いて「ア」と発音し、僕が別のガラスに「ア」と書く。そんな調子でカタカナが終わり、ひらがなはどこまで進んだでしょうか。「ん」の字まで教わらないうちに、兄が「今日で最後だ」と僕に言いました。
志茂田さん:僕が5歳の時に20歳で旧満州の荒野で戦死した兄との別れです。兄は旧制商業学校を卒業後、千葉県成田市にあった大蔵省税務講習所(現在の税務大学校)に入所しました。後に両親に聞くと、1943年4月のことだったそうです。兄は寮生活をしていましたが、2年の修業年限を半年繰り上げて卒業し、1944年11月に東京都小金井町(現・小金井市)の旧国鉄官舎の我が家に戻ってきました。兄には渋谷税務署勤務の辞令が下りていましたが、繰り上げ卒業の目的は兵隊を召集することでした。
すでに戦局は厳しく、兄が戻ってきて間もなく東京で初めての空襲がありました。自宅から2キロほど離れた場所にあった中島飛行機武蔵製作所が、B29の大編隊による爆撃を受けたんです。終戦の年になると、我が家の上空にも敵戦闘機がブンブン飛び回り、庭から空中戦を眺めることもありました。
兄は年明けに召集令状を受け取り、3月下旬に兵営に入ることになっていましたから、2月ごろだったでしょうか。西寄りの空で敵味方1機ずつの戦闘機が組んず解れつの巴戦を繰り広げ、1機が煙を引いて落ちたんです。そのとたん、兄が「やった!」と叫んで大きな拍手をしました。兄の横顔を仰ぎ見ると、とても晴れやかな表情でした。
ところが、次の瞬間、兄は顔を曇らせて拍手をやめました。落ちていく戦闘機に日の丸がついていたからです。その戦闘機から白いパラシュートが飛び出し、兄がまた拍手をしたので、僕も手をたたきました。兄の横顔の表情が変わっていくさまが目に焼きついています。
−−お兄様はどのようなお人柄でしたか。
志茂田さん:兄の蔵書はほとんどが歌集と詩集で、僕が少し大きくなってからそのうちの一冊を開くと、押し花が挟まれていました。また、戦中で物資が乏しく、紙が貴重だったのでしょう。詩集の余白には自作の短歌などが書き残されていました。それらを見る限り、命を大切に、何があっても青春を悔いなく生きようという、ひたむきさを感じます。軍国青年ではなかったと思います。
兄は4人きょうだいの一番年長で、次に姉がふたりいて、僕は末っ子。幼いころの僕は体が弱く、兄は何かと心配をして僕の面倒を見てくれました。ふたりで過ごした時間の中で、僕にとってとりわけ大切な思い出があります。兵営に入る日が迫ってきたころ、兄が僕にカタカナとひらがなを教えてくれたんです。
結露した窓ガラスに兄が指で文字を書いて「ア」と発音し、僕が別のガラスに「ア」と書く。そんな調子でカタカナが終わり、ひらがなはどこまで進んだでしょうか。「ん」の字まで教わらないうちに、兄が「今日で最後だ」と僕に言いました。
すべてカタカナで書かれたハガキ
−−兵営に入る日が来たんですね。
志茂田さん:その日、僕は父と近所の国鉄職員14、5名と一緒に兄を最寄りの武蔵境駅まで送りに行きました。旧国鉄官舎は現在の東小金井駅により近い場所にあったのですが、東小金井駅ができたのは戦後20年経ってからでした。旧国鉄官舎の周りには麦畑が広がっていて、武蔵境駅までの道をずいぶん歩いても、自宅まで見通せたんですよ。
歩き疲れて父におんぶをしてもらい、後ろを振り向くと、母が自宅の木戸から顔をのぞかせているのが見えました。でも、僕に気づいたとたん、戸を閉めて中に入ってしまいました。あの時、母は兄を見送っていたんだとわかったのは少し大人びてからでした。
駅に着いて軍歌を歌ったりして、「間もなく電車が」とアナウンスがあると、みんなで万歳三唱をし、兄は付き添いの父と電車に乗り込みました。閉まったドアのガラス窓を軽く叩くようにして兄が皆さんに別れを告げた直後、僕と目が合いました。何となく照れながら僕があいさつをすると、兄はガラス窓に顔をつけて僕の目を見つめました。それが兄の姿を見た最後です。兄の目は澄んでいましたが、幼心にさみしそうな感じがしたのを覚えています。
兄が召集された部隊は翌月には旧満州(中国東北部)に動員され、ソ連国境近くに駐屯していました。そこから家族に手紙が届くのですが、自分宛ての手紙がなく、母に理由を聞きました。すると、母が「あなたから書いたら」とハガキをくれたので、兄に習ったカタカナやひらがなを一生懸命書きました。そのハガキに兄から返事が来ました。
兄からの最初で最後の手紙の文面は「忠男(志茂田さんの本名)、兄ちゃんは忠男の書いた字を見ましたよ」という一文から始まり、すべてカタカナでした。「忠男、早く兵隊さんになって、敵の飛行機を落としなさい」と“飛行機”を略画にして書かれていて、戦闘機乗りに憧れていた僕はうれしく感じましたが、小学生に入ったころに読み返し、これは兄の本心ではないと感じました。検閲を通るよう書いた言葉だったのでしょう。
志茂田さん:その日、僕は父と近所の国鉄職員14、5名と一緒に兄を最寄りの武蔵境駅まで送りに行きました。旧国鉄官舎は現在の東小金井駅により近い場所にあったのですが、東小金井駅ができたのは戦後20年経ってからでした。旧国鉄官舎の周りには麦畑が広がっていて、武蔵境駅までの道をずいぶん歩いても、自宅まで見通せたんですよ。
歩き疲れて父におんぶをしてもらい、後ろを振り向くと、母が自宅の木戸から顔をのぞかせているのが見えました。でも、僕に気づいたとたん、戸を閉めて中に入ってしまいました。あの時、母は兄を見送っていたんだとわかったのは少し大人びてからでした。
駅に着いて軍歌を歌ったりして、「間もなく電車が」とアナウンスがあると、みんなで万歳三唱をし、兄は付き添いの父と電車に乗り込みました。閉まったドアのガラス窓を軽く叩くようにして兄が皆さんに別れを告げた直後、僕と目が合いました。何となく照れながら僕があいさつをすると、兄はガラス窓に顔をつけて僕の目を見つめました。それが兄の姿を見た最後です。兄の目は澄んでいましたが、幼心にさみしそうな感じがしたのを覚えています。
兄が召集された部隊は翌月には旧満州(中国東北部)に動員され、ソ連国境近くに駐屯していました。そこから家族に手紙が届くのですが、自分宛ての手紙がなく、母に理由を聞きました。すると、母が「あなたから書いたら」とハガキをくれたので、兄に習ったカタカナやひらがなを一生懸命書きました。そのハガキに兄から返事が来ました。
兄からの最初で最後の手紙の文面は「忠男(志茂田さんの本名)、兄ちゃんは忠男の書いた字を見ましたよ」という一文から始まり、すべてカタカナでした。「忠男、早く兵隊さんになって、敵の飛行機を落としなさい」と“飛行機”を略画にして書かれていて、戦闘機乗りに憧れていた僕はうれしく感じましたが、小学生に入ったころに読み返し、これは兄の本心ではないと感じました。検閲を通るよう書いた言葉だったのでしょう。
白い箱に収められた、兄の名前が書かれた粗末な木片
−−お兄様の優しさがつたわってきます。
志茂田さん:この手紙が届いて間もない1945年8月8日、旧満州は日ソ不可侵条約を破ったソ連軍に攻め込まれました。国境近辺の戦いは苛烈極まるものだったはずです。兄が所属していた部隊は小部隊にわかれて終戦を知らぬまま戦い続け、兄は8月22日から23日の未明に戦死しました。
僕たちがその事実を知ったのは、兄の戦死公報が届いた1952年春のことでした。それ以前から、兄の部隊は全滅したと伝え聞いており、家族にはそれなりの覚悟があったように思います。ただ、兄の行方について確かな情報はなく、一縷の望みを持ち続けていました。
三畳間の兄の部屋は出征した日のままで、座り机の上に20歳の軍服姿の兄の写真が飾られ、毎朝家族が出かけた後に母が陰膳を供えていました。僕は当時中学生になる直前で、学校から帰ると兄の部屋に入り、「ただいま」と兄の写真に挨拶するのが日課になっていました。ある日、いつものように兄の部屋に入ると陰膳を前に母が正座をしていて、僕に気づくと「あ、ごめんね」と言って立ち上がって、すっとどこかに行ってしまいました。
夜になって家族が揃い、その理由がわかりました。兄と同じ部隊にいて生き残った戦友3人がシベリア抑留から帰還し、その人たちの証言で兄の戦死が裏づけられて、戦死公報が届けられたのでした。受け取ったのは母でした。母が泣く姿を僕に見せたのはあの時だけで、それ以降は一度も見たことがありません。
数日後、兄のお骨を受け取りに厚生省援護局(当時・引揚援護庁)まで姉と一緒に行きました。帰り道、姉が抱えていた白い箱を「変わろうか?」と持って歩きはじめると、コトコトと音が鳴り続けました。帰宅後、母が白い箱を開け、父と姉と僕でのぞきこむと、兄の名前が書かれた粗末な木片が入っていました。「こんなもんがあるか」と父は憤慨していましたね。ほどなく、兄の戒名の入った立派な位牌が仏壇に置かれました。
兄の戦死公報が届くまでは、僕も心のどこかで兄が生きていると信じていました。兄が生きていれば、シベリアの収容所にいるはずです。そこからもし手紙が来たら、返事の手紙の最初には「ひらがなの残りは学校で習ったよ」と書くことに決めていました。
今も兄の死を100パーセント認めている訳ではありません。僕は兄の最期を見ていませんから。
志茂田さん:この手紙が届いて間もない1945年8月8日、旧満州は日ソ不可侵条約を破ったソ連軍に攻め込まれました。国境近辺の戦いは苛烈極まるものだったはずです。兄が所属していた部隊は小部隊にわかれて終戦を知らぬまま戦い続け、兄は8月22日から23日の未明に戦死しました。
僕たちがその事実を知ったのは、兄の戦死公報が届いた1952年春のことでした。それ以前から、兄の部隊は全滅したと伝え聞いており、家族にはそれなりの覚悟があったように思います。ただ、兄の行方について確かな情報はなく、一縷の望みを持ち続けていました。
三畳間の兄の部屋は出征した日のままで、座り机の上に20歳の軍服姿の兄の写真が飾られ、毎朝家族が出かけた後に母が陰膳を供えていました。僕は当時中学生になる直前で、学校から帰ると兄の部屋に入り、「ただいま」と兄の写真に挨拶するのが日課になっていました。ある日、いつものように兄の部屋に入ると陰膳を前に母が正座をしていて、僕に気づくと「あ、ごめんね」と言って立ち上がって、すっとどこかに行ってしまいました。
夜になって家族が揃い、その理由がわかりました。兄と同じ部隊にいて生き残った戦友3人がシベリア抑留から帰還し、その人たちの証言で兄の戦死が裏づけられて、戦死公報が届けられたのでした。受け取ったのは母でした。母が泣く姿を僕に見せたのはあの時だけで、それ以降は一度も見たことがありません。
数日後、兄のお骨を受け取りに厚生省援護局(当時・引揚援護庁)まで姉と一緒に行きました。帰り道、姉が抱えていた白い箱を「変わろうか?」と持って歩きはじめると、コトコトと音が鳴り続けました。帰宅後、母が白い箱を開け、父と姉と僕でのぞきこむと、兄の名前が書かれた粗末な木片が入っていました。「こんなもんがあるか」と父は憤慨していましたね。ほどなく、兄の戒名の入った立派な位牌が仏壇に置かれました。
兄の戦死公報が届くまでは、僕も心のどこかで兄が生きていると信じていました。兄が生きていれば、シベリアの収容所にいるはずです。そこからもし手紙が来たら、返事の手紙の最初には「ひらがなの残りは学校で習ったよ」と書くことに決めていました。
今も兄の死を100パーセント認めている訳ではありません。僕は兄の最期を見ていませんから。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
「きな粉ごはん」が食べたいです。子どものころに母が作ってくれました。温かいごはんにきな粉をかけた粗食ですが、戦中戦後の貧しい時代、おいしかったですね。できることなら、母の味で食べてみたいです。
きな粉ごはん
きな粉と砂糖を好みの割合で混ぜ、ごはんにかける。塩を少し入れると、甘さが引き立つ。きな粉は大豆を丸ごと炒って粉にしたもの。ビタミンC以外の栄養素をすべて含み、消化吸収にも優れている。
プロフィール
作家/志茂田景樹さん
【誕生日】1940年3月25日
【経歴】1980年、『黄色い牙』で第83回直木賞を受賞。絵本作家、児童書作家、小説作家、タレントとして幅広い分野で活躍。2010年から「@kagekineko」のアカウントでX(旧ツイッター)を始動。心に響く名言や人生相談が話題を呼び、フォロワー数は40.8万人(2022年3月現在)を突破している。
【誕生日】1940年3月25日
【経歴】1980年、『黄色い牙』で第83回直木賞を受賞。絵本作家、児童書作家、小説作家、タレントとして幅広い分野で活躍。2010年から「@kagekineko」のアカウントでX(旧ツイッター)を始動。心に響く名言や人生相談が話題を呼び、フォロワー数は40.8万人(2022年3月現在)を突破している。
Information
志茂田さんの名言を496ページのボリュームで収録した『死ぬのは明日でもいいでしょ。−−辛いとき、悩んだとき、気持ちを切り替える言葉』(自由国民社)。「座右に投げ出しておいて、コーヒーを飲むときにでもページをめくってもらえたら」と志茂田さん。つらいとき、悩んだときにすっと気持ちを切り替えてくれるメッセージが多数掲載されている。
(取材・文/泉 彩子 写真/刑部 友康)