「母を看取った賛美歌」 音楽伝道者 久米小百合(元・久保田早紀)さん【インタビュー前編】~日々摘花 第16回~

コラム
「母を看取った賛美歌」 音楽伝道者 久米小百合(元・久保田早紀)さん【インタビュー前編】~日々摘花 第16回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第16回のゲストは、音楽伝道者・久米小百合さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
1979年からの5年間、シンガーソングライター・久保田早紀として活動し、名曲『異邦人-シルクロードのテーマ-』を生み出した久米さん。結婚を機に引退し、現在は音楽でキリストの教えを伝える音楽伝道者として活躍されています。前編では、「久保田早紀」に別れを告げ、神のために歌う道を選んだ理由とその喜び、そして、賛美歌を愛したお母様との別れについてお話しいただきました。

「シルクロードの人・久保田早紀」と決別したかった

ーー20歳で「久保田早紀」としてデビューし、デビュー曲『異邦人』がミリオンセラーに。当時は葛藤もあったそうですね。

久米さん:『異邦人』は、短大から自宅に帰る中央線の中でふと思い浮かんだ曲でした。原曲に私がつけたタイトルは『白い朝』。プロによる大胆なアレンジが加えられ、異国情緒あふれる『異邦人』として生まれ変わった自分の曲を聞いた時は、正直なところ、「こんな風にしちゃうんだ」と驚いたものです。

レコード会社のオーディションに応募したのは、自分の作った曲を誰かに聞いてもらいたい、という素朴な動機でした。そんな自分があれよという間にレコーディングをさせてもらい、デビュー曲がいきなりの大ヒット。実力も気持ちも追いつかず、気づけば、「久保田早紀」として「もっと売れる曲を書かなければ」「大きなステージでも堂々と歌わなければ」と自分で自分を追い詰めていました。周囲からも『異邦人』を基準に評価されていたように思います。

居心地の悪さを感じ、「自分が本当にやりたい音楽は何だったんだろう」と考えるようになりました。その答えを求めて自分の音楽のルーツを振り返った時、不思議と思い出されたのが、子どものころに通った日曜学校で歌った『主われを愛す』という賛美歌でした。

ーー結婚と同時に25歳で芸能界を引退し、30代前半からは音楽伝道者として教会やミッションスクールなどを中心に活動されています。その経緯は?

久米さん:賛美歌が聞きたくて教会に通ううち、この世界には「自分だけを頼りに生きる人生」と、「神のゆるぎのない愛を信じ、そこに根ざして生きる人生」があると教えられました。かつての私は信じるものが自分しかなく、他人と自分を比べて心がゆれがちでしたが、そうではない生き方をしたいと思って、キリスト教のプロテスタント教会で洗礼を受けたんです。

洗礼を受けたのはデビュー2年目です。ゴスペルシンガーの小坂忠さん、「ゴダイゴ」を辞めて宣教師になったスティーブ・フォックスさんなど牧師や宣教師として活動する音楽仲間に出会い、神様のメッセージを音楽で伝える道があると知りましたが、当時は音楽と信仰を結びつけてはいませんでした。洗礼を受けただけの私に何ができるのかわからなかったからです。

ただ、当時は何をやっても「シルクロードの人だよね」と言われ、「久保田早紀」という商店のシャッターを降ろさない限り、自分は前に進めないと感じていました。だから、引退した時はとてもスッキリした気持ち。後悔はありませんでした。

引退後は専業主婦に。「元歌手」ということで、お願いされて教会などで歌うことはありましたが、それ以上のことは考えていなかったんです。音楽伝道者への道を歩みはじめたのは、ある大学で歌った時に、生徒さんからキリスト教について質問されてうまく答えられず、「クリスチャンとして歌うからにはきちんと勉強したい」と神学校に通いはじめたことがきっかけ。芸能界を引退して3年経ったころのことです。最終的に宣教師の資格をいただき、「神様から授かった音楽の才能を生かしたら?」との周囲の励ましもあって、卒業後に音楽伝道者として活動を始めました。

今は神様のために、童謡も『異邦人』も歌う

ーー音楽伝道師として歌うのは、賛美歌やゴスペルといった宗教音楽でしょうか。

久米さん:場面にもよりますが、教会コンサートでは伝統的な宗教音楽はもちろん、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)と呼ばれるオリジナルの賛美歌も歌いますし、童謡やポップスも歌います。リクエストがあれば、『異邦人』を歌うことも。やっていることは「久保田早紀」時代とほとんど変わらないんです。

大きな違いは、誰のために歌うのか。商業音楽では「お客様が神様」ですが、音楽伝道者として歌うのは「神様のため」。歌う曲は同じでも、神様のことを伝えるためだけに歌います。その伝え方に大きな責任はありますが、私自身のあり方や考え方を表現し、そこを評価されるわけではありません。神様のことを伝える、という自分のやりたいことに100パーセント力を注げるのは、とても幸せで、ありがたいと感じています。

ーーところで、子ども時代に日曜学校に通っていたと伺いましたが、そのきっかけは?

久米さん:直接のきっかけは友人に誘われたことですが、母の影響が大きかったと思います。母は子どものころに姉と日曜学校に通っていたそうです。信州の山間で育った少女にとって、教会というちょっとハイカラな空間は胸躍る世界だったのでしょう。私にもたびたび当時の思い出を話し、「クリスマスに歌ったのよ」と賛美歌を口ずさむこともありました。調子外れで、思い出すとくすりと笑ってしまうんですけどね(笑)。

母はスポーツが好きで病気知らずの人でしたが、東日本大震災の翌年に急に体調を崩し、検査で肺がんが見つかって、2013年の春先に他界しました。亡くなる直前に洗礼を受けています。母には長い間、「クリスチャンになりたい」という思いがあったようですが、「私は洗礼を受けられないと思う」と言っていました。実家の久保田家は仏教ですし、私には生後10日で亡くなった弟がいて、久保田家のお墓に入っているので、自分が宗教を変えるわけにはいかないと考えていたようです。

歌いながら最期を迎えた母と、私たち家族

ーーそのお母様が死を前にして、洗礼を受けたのはなぜだったのでしょう?

久米さん:「宗教嫌い」と自称していた父が、「ママはクリスチャンになった方がいいと思う」と母に勧めたことから、母の迷いがなくなり、自宅で病床洗礼を受けました。父の言葉は意外でしたが、やはり母のことを一番理解していたのは、ともに生きて来た父だったのだと思います。

母はすでにほとんど話せない状態でしたが、洗礼式では、一番好きだった「聖なる、聖なる、聖なるかな」という賛美歌をはっきりした口調で歌っていました。その姿を、父が「ママ、良かったね」と言いながら、何度もシャッターを切ってカメラに収めていたのを思い出します。母が神様のもとに旅立ったのは、その日から約1週間後。歌いながら亡くなったんですよ。

ーー歌いながら、ですか。

久米さん
:その日は午後から仕事がありましたが、ギリギリまで実家にいて、夫や息子も一緒に母の様子を見守っていました。母の意識は朦朧としていましたが、お医者様から「聴覚は最後まで生きているから、歌ってあげて」と言われ、家族で代わりばんこに母の好きな賛美歌を歌っていたんです。

すると、母が曲に口を合わせはじめたんです。そして、「ハーッ」と歌が途切れた瞬間に息を引き取りました。牧師さんのお手伝いなどで、これまでさまざま方の最期に立ち合わせていただきましたが、母のように歌いながら最期を迎えた人はいません。

肺がんの末期は苦しむ方も多いそうですが、母は最後まで呼吸が乱れることがなく、お医者様もとても驚いていました。医学的な理由はわかりませんが、洗礼を受けたことの意味は大きかったと感じています。

母は、私が教会で歌う時には父と一緒によく聴きに来てくれましたし、礼拝に参加することもありました。そうした場を通じて、聖書がどういう風に生き方、死に方を説いているかを聞き、心に触れるものがあったのだと思います。そして、自らの死を近くに感じるようになった時、新しい世界に旅立つ「パスポート」として、自分が何者であって、何を信じ、どう生きてきたのかという証を手にしたいと考えて洗礼を望んだのでしょう。

その願いが叶い、安心して天国に旅立ったから、母の表情はあんなに柔らかだったのだと思います。不謹慎な言い方かもしれませんが、「こんな風に死ねるんだ」とうらやましくなるような最期でした。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
久保田早紀としてデビューする直前、母と訪れたギリシャです。小学生時代に友人の家にあった写真集でアクロポリスの光景を見て以来、初めての海外旅行はギリシャと決めていました。神学校の授業で習ったギリシャ語をもっと学びたいと1994年夏にはアテネの語学学校に留学しました。年齢も国籍も異なるさまざまな人たちと学んだ1カ月は、かけがえのない、贅沢な時間でした。

アテネ「パナシナイコスタジアム」

アテネ留学中は、近代オリンピックが初めて開催された競技場「パナシナイコスタジアム」の裏手にあるアパートにひとり滞在した。「山のような宿題をようやく片付け、夕飯の買い出しに表通りに出ると、歴史的な建造物の前で街の人たちが夕涼みしていたりする。普段着のアテネの光景が頭に焼きついています。あそこにまた行きたいです」と久米さん。

プロフィール

音楽伝道者/久米小百合さん

【誕生日】1958年5月11日
【経歴】共立女子短期大学を卒業後、1979年にシンガーソングライター・久保田早紀としてデビュー。デビュー曲『異邦人』が140万枚のヒットとなる。85年、結婚を機に芸能界を引退。音楽伝道師・久米小百合として活動を開始し、現在は音・言葉・絵画を組み合わせた新しいスタイルのチャペルコンサートを行っている。
【そのほか】東京バプテスト神学校神学科修了。カーネル神学大学院博士課程修了。「オリーブオイルジュニアソムリエ®」と「オリーブオイルアドバイザー TM」(一般社団法人日本オリーブオイルソムリエ協会認定)の資格を持ち、オリーブオイルのテイスティングをしながら聖書の世界を楽しく学ぶ「バイブルカフェ」の講師としても活動している。

Information

初めての自伝『ふたりの異邦人 久保田早紀*久米小百合 自伝』(いのちのことば社)。『異邦人』誕生の背景や芸能界引退の理由、キリスト教の伝道者として歌うことの意味、夫との出会いや38歳での出産、子育ての葛藤−−−−自身の人生と音楽について、飾ることなく語っている。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)