「悲劇を喜劇に変えてゆく」芸人チャンカワイさん【インタビュー後編】~日々摘花 第31回~

コラム
「悲劇を喜劇に変えてゆく」芸人チャンカワイさん【インタビュー後編】~日々摘花 第31回~
お笑いコンビ「Wエンジン」を結成して20年あまり。最近ではロケレポーターや食レポでも活躍し、世の中の気になることを検証するバラエティ番組『それって!?実際どうなの課』(中京テレビ)の食べ物検証企画での体当たりぶりも話題のチャンカワイさん。後編では死生観や大好きな神社めぐりの背景にあるお考えなどチャンさんの内面に迫ります。

遠くに地雷の爆発音を聞きながら眠った、カンボジアでの夜

−−チャンさんは「死」というものをどのように捉えていらっしゃいますか?

チャンさん:僕のテレビデビューは『進ぬ!電波少年』(日本テレビ)というバラエティ番組で、この番組のロケが今ではあり得ないほど過酷だったんです。21歳で初めて出演したのは「電波少年的インターポール」という企画。事情も知らぬままイタリアに連れて行かれ、治安の悪い街角にひとりで立たされました。

続いて出演したのは、「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」という企画。カンボジアのとある場所からアンコールワットまでの道89キロメートルを舗装し、1キロごとに生活費が支給されるという内容でした。僕たちがいたのは内戦時に埋められた地雷が残る地域で、夜中に遠くから爆発音が聞こえたこともありました。

その後もとくに海外のロケでは身の危険を感じたり、命の重さについて考えさせられることが多かったんです。だから、「生きているというのは、それだけでありがたいことなんだ」と身をもって感じています。

先日、僕の書籍の対談でみやぞんさんと話をした時に、彼が「“幸せ”って“死と合わせる”という意味じゃないかって思う」「死と重ね合わせてみたときに、今がどれだけ幸せかがわかる」と言ったんです。「みやぞんくん、ええこと言うな」とうなずきました。
−−「死」を身近に感じるような過酷な仕事をすることに対しては、どのようにお考えになっていましたか?

チャンさん:何と言うか、若い時は「死ぬのが怖い」とか「死にたくない」ってあまり考えたことがなかったんです。デビュー当時はそれこそ「笑ってもらえるなら、何でもする」と思っていました。

ところがある時、テレビ番組で僕が爆発物を入れたランドセルを背負うという場面が放送されて、それを見た父が手紙を送って来たんですね。「息子のあんな姿は心配でとても見られない。これからは芸人“チャンカワイ”として見ます」って。

もちろん撮影は安全性に配慮して行われていたし、視聴者の皆さんにも笑ってもらえる内容だったんですよ。だから、僕自身はその仕事に誇りを持って臨んだし、結果にも満足していました。でも、父の手紙を読んで「こんな自分でも、気にかけてくれる人がいる」と感じ、親を心配させてまでやるからには名を残す仕事をしないと、と思うようになりました。

ただやっぱり、捨て身というか「笑いのためなら、自分はどうなってもいい」というところがずっとあったんです。でも、34歳で結婚して娘たちも生まれ、自分が必要とされていると感じるようになって変わりました。最近になってようやく、「死にたくない」と考えています。

神社に行くのは、「ありがとう」をめぐらせるため

−−チャンさんは神社めぐりがお好きで、年間50社以上訪れるそうですね。何かきっかけがあったのでしょうか。

チャンさん:芸能界は人気商売だからか、運気アップに敏感な人が多いんです。番組や映画を祈願するためにみんなで参拝することもありますし、仕事の前に神社に行って手を合わせるという人もいます。だから、僕も見習って神社に行き、「売れますように」「仕事がたくさん来ますように」と祈ることはよくありました。

ただ、売れない時期が長く、ご利益が今ひとつ感じられなかったこともあって、僕にとって神さまは神々しすぎて近寄れない、遠過ぎる存在でした。ところが、2008年にコンビ名を「宴人」から「Wエンジン」に変えたタイミングで「惚れてまうやろー!」のネタがテレビ局の方の目に留まり、ネタ見せ番組『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ)に出演。賞までいただいて、仕事がひとつふたつと舞い込んで来たんです。

この時に「見えない力」を実感し、神さまを身近に感じるようになり、ことあるごとに神社に行くようになりました。コンビ名を改名した途端ブレイクしたことを、最初は神さまが起こした奇跡だと思ったんですよ。でも神社に通ううち、「奇跡」なんかじゃないと気づきました。

確かに僕は「見えない力」に支えられているけれど、その力を生み出しているのは「人」。コンビ名の改名は事務所の先輩たちが忙しい時期に集まって考えてくれたものでしたし、仕事が増えたのも依頼してくださる皆さんや事務所のスタッフのおかげ。それに、僕たちが頑張らなければ、応援してくれる人も現れません。

神さまも人も自分にとって尊い存在。神さまと同じように周りの人たちにも「ありがとうございます」を言葉にして伝えよう、とある時期から考えるようになりました。すると、番組のレギュラーやCM出演が決まったり、奥さんと出会ったり、願いが次々と叶うようになりました。

だから、僕にとって神社は願いごとをするというよりは、神さまに「こんないいことがありました。ありがとうございました」とお礼を伝えながら、お世話になった人たちのことを思い、「ありがとう」をめぐらせる場所なんです。

人生の最後はすべて伏線回収したい

−−素敵なお考えですね。最後に、読者の皆さんに言葉の贈り物をお願いします。

チャンさん:大切にしている言葉がいくつかあって、取材前から迷っていたのですが、「悲劇を喜劇に」にします。

僕ってダメダメだったんですよ。太っていて運動神経も悪いし、成績も振るわず、唯一子どものころから続けていた剣道も高校の時に疲労骨折してできなくなってしまって。そんな時に自分のコンプレックスをさらけ出して、みんなを笑わせ、幸せにしているお笑い芸人の姿を「かっこいいな」と思って芸人を目指したんです。

それでデビューできたまではいいけれど、売れないし、モテない。幸せそうなカップルや、合コンでもてはやされている人たちを端っこの方から見て妬み、嫉みを爆発させたのが、皆さんに知っていただくきっかけになった「惚れてまうやろー!」というフレーズでした。

僕としては妬みを思いっきり叫んだだけなのに、「発散」が「共感」に変わった。僕と同じような思いをしていた人たちが拍手をしてくれたことが、ものすごくうれしかったんですね。誰かのために何かをできたということが。

ところが、ようやくネタ芸人としてやっていけると思ったら、東日本大震災で仕事が一気に減ってしまって。そんな時にバラエティ番組『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ)で海外ロケの仕事をさせてもらったり、食レポの仕事をいただくようになり、年月を重ねるうちに、いつの間にか「ロケ芸人」としてたくさんの番組に出させてもらうようになっていました。

日々一生懸命やっていたら、悲劇が喜劇に変わる。僕の人生はその繰り返しでした。これからも大なり小なり悲劇は起きると思いますが、最後はすべて伏線回収をして、家族に囲まれて笑って死にたい。そんな風に思っています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
オムライスです。『進ぬ!電波少年』の企画「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」でカンボジアに滞在していた時のこと。お金がないので毎日10倍がゆを食べながら力仕事をしていて、あまりにお腹が空くので、眠る前によく仲間たちと「今、何が食べたい?」という話をしていたんです。満点の星空を見ながら。

しゃぶしゃぶやステーキなどいろいろなメニューを思い浮かべましたが、結局、僕が一番恋しく思うのは母のオムライスでした。鶏のもも肉を少し大きめにカットしてぷりんと肉の主張があり、ケチャップの酸味が効いたチキンライスをしっかり焼き上げた卵で包んだオムライス。結婚後は、僕の好物を知っている妻が作って、ケチャップでハートまで書いてくれます。最後なら、それをちょっとずつスプーンで崩しながら、時間をかけて食べたいです

洋食店「北極星」

大正11年創業の洋食店「北極星」のオムライスもチャンさんのお気に入り。「北極星」は「元祖オムライスの店」として知られ、大阪・心斎橋にある本店をはじめ兵庫、京都に15店舗を展開している。
https://www.hokkyokusei.online

プロフィール

芸人/チャンカワイさん

【誕生日】1980年6月15日
【経歴】三重県名張市出身。本名・川合正悟。2000 年にお笑いコンビ、「宴人(現Wエンジン)」を結成。 「惚れてまうやろー!」「気をつけなはれや!」のフレーズで注目を浴びる。 テレビやラジオなどで生中継・ロケリポーターとして年間200日以上全国各地を飛び回る一方、テレビドラマや映画で俳優としても活躍中。
【そのほか】公式ブログ https://ameblo.jp/chan--kawai/

Information

チャンさんの初めての書籍『神さまが惚れてまう48のポイント 〜幸せの見つけ方はロケと神社が教えてくれました〜』(ぴあ)。チャンさんがこれまで心がけてきたこと、コンプレックスとの向き合い方、物事がうまくいかないときの考え方など、大好きな神社めぐりを通じてわかった“神さまと仲良くする方法”について語り尽くした1冊。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)