「父がくれた、何通もの手紙」友近さん【インタビュー前編】~日々摘花 第18回~

コラム
「父がくれた、何通もの手紙」友近さん【インタビュー前編】~日々摘花 第18回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第18回のゲストは、お笑い芸人の友近さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
さまざまなキャラクターに扮する「ひとりコント」で人気を博し、俳優や演歌歌手「水谷千重子」としても活躍する友近さん。前編では、友近さんとお笑いの出合いに影響を与えたお父様との別れについてお話をうかがいます。

「西尾一男」そのまま、芸人の私を誰よりも応援してくれた父

−−友近さんの心に最も深く刻まれている「永遠の別れ」とは?

友近さん:2016年に他界した父との別れです。父が亡くなったのは、当時出演していたNHK連続テレビ小説『あさが来た』の最終収録日の前日。収録を終えた後、愛媛県松山市の実家に向かいました。私が『あさが来た』に出演することを父はとても喜び、肺がんが見つかって苦しい日々の中、毎朝欠かさず見ていたようです。せめて最終回まで見せてあげたかった、と思います。

−−お父様は友近さんにとってどんな存在でしたか?

友近さん:私のコントに欠かせないキャラクターのひとり「西尾一男」そのままの、強烈に面白く、何でもやりたがる人でした。吉本の芸人仲間と愛媛で公演をやった時も、お客さんからの質問コーナーで真っ先に「はーい!」と手を挙げたりするから、こっちは「もう、やめて」と冷や汗をかきました。お笑い番組も大好きで、よく見ていましたね。私がお笑いに関心を持ったのも、父の影響があったと思います。

一方、家の中では「亭主関白」。自分の言うことが絶対に正しいと譲らず、仲のいい家族ではあるものの、夫婦喧嘩も絶えませんでした。まあ、家族あるあるですが(笑)。私自身があまり家ではおしゃべりするタイプではなく、周囲をじっと観察しているような子だったこともあって、父のことをうるさく感じ、ふたりでの会話は多くありませんでした。

大学時代、芸人を目指して大阪のNSC(吉本総合芸能学院)に行こうとした時も、父は「あんな先の見えない世界は、あかん」と猛反対。私も諦めざるを得ませんでした。だけど、26歳で地元での仕事を辞めてNSCに入り、芸人として歩みはじめた私を誰よりも応援してくれたのは、ほかならぬ父でした。私が出演する番組はすべて録画し、雑誌や新聞の取材記事はスクラップ。私の写真をいつも懐に忍ばせ、「これ、うちの娘や」と警察手帳のように見せては、ご近所に自慢していたそうです。ありがたい話ですが、当時は「恥ずかしいから、やめて」と顔から火が出る思いでした。

ランドセル姿の姪と最後の見送り

−−「R-1ぐらんぷり2002」でファイナル進出。その後、東京での活動が増え、上京されましたね。お父様とは頻繁にやりとりをされていたのですか?

友近さん:父はまめなので、「元気か?」「たまにはみんなで旅行をしよう」としょっちゅう手紙をくれましたが、私は面倒くさがってあまりちゃんと返事もせず。電話も気が向いたら折り返すような感じでした。今思えば、本当に若気の至りですね。父も歳とともに病気がちになりましたが、入院しても、しばらくすると見事に回復していたので、親はいつまでも元気でいてくれるものと思い込んでいたんです。

ところが、『あさが来た』が始まって間もなく、父にステージ4の肺がんが見つかり、「余命半年」と医師から宣告を受けました。それからは時間をやりくりしては愛媛に帰るようにしたので、父も喜んではくれましたが、親孝行をするには少し遅かったかもしれません。すでに父の病状が進み、旅行をしたり、外食を楽しめる状態ではありませんでした。父が元気で、手紙をたくさんくれていたうちに、一緒にいろいろなところに行っておけば良かったなと思います。

−−最後にお父様とお話しされたのは?

友近さん:他界する直前、電話口で、はあはあと息をする声を聞いたのが最後になりました。『あさが来た』の最終収録を終えた足で実家に戻ると、すでに息を引き取った父が白い布団に寝かされていて、「覚悟はしていたつもりだけど、亡くなるんだ。やっぱり」と思ったのを覚えています。手を触ると冷たくて、何度もその感触を確かめました。お化粧をしてもらった父の顔がつるつるで、「こんなに綺麗になるんだ」と驚いたりもしました。まだ幼い姪が父の体の上に玩具を置いて遊んでいたり、みんなで撮影会をしたり、いつもと変わらない家族の光景が繰り広げられ、父が亡くなったことに現実味がありませんでした。

忘れられないのは、葬儀の時に、小学校入学を前にした姪がランドセル姿で最後のお見送りをしたこと。ランドセルも真新しい洋服も全部、姪のために父が揃えたもの。姪は父のお見舞いの際には一式身につけて、「フル装備」で行っていました。入学式の日には父はすでに他界していましたが、生前に姪の晴れ姿を見せることができてよかったです。

ネタになるほど面白かった、父のエンディングノート

−−お父様はとても家族思いだったんですね。

友近さん:そうだと思います。病気がちになってからは、自分に万が一のことがあった時に家族が困らないようにと貯金や保険のことも家族全員にはっきりと話してくれていました。亡くなる3年前からエンディングノートも用意していたんですよ。自分で予約した葬儀場の名前から喪主のこと、規模、BGMまで細かく書いてくれていたので、とてもスムーズに葬儀を上げることができました。

父は地元のJAに40年間勤め退職し、学生時代から始めた空手の師範代でもあったので、多くの関わった方々が葬儀に参列してくださいました。一般的な葬儀ではありましたが、「愛媛中の花がなくなった」と言われる規模になりました。それにもかかわらず、家族が父との別れにしっかりと向き合えたのは、父の準備のおかげでした。

父のエンディングノートには子どものころからの思い出を綴ったり、趣味について書き込むページもありました。「映画は『マッドマックス2』が好きだったんやな」などと、私が知らなかった父の一面を知ることもでき、読み込んでしまいました。エンディングノートって、その人の人柄がすごく表れるんだな、と思いましたね。父のエンディングノートは、後日、コント「西尾一男」シリーズのネタにしたほどの面白さでした。

父のことは生前から面白いと思っていましたが、エンディングノートを読んだり、ふと父の姿を思い出すにつけ、あらためて「おとんは、おもろいな」とうなりました。頑固だけど、面白く、もの知りでもあった父。もっといろいろな話を聞いておけば良かったと思います。「後悔先に立たず」ですが、「西尾一男」をやっていると父を思い出し、ようやく父とまっすぐに向き合えた気がしています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
松山(愛媛県)のおばあちゃんの塩むすびが食べたいです。よく「おにぎりの美味しさは、シンプルな塩むすびでこそわかる」と言いますが、つい最近までさほど魅力を感じていなかったんです。ところが、先日、おばあちゃんがお昼ごはんに握ってくれた塩むすびが美味しくて。塩加減も海苔の風味も良く、いまだに忘れられません。おばあちゃんは94歳。少しもの忘れも多くなってきたけれど、整理整頓上手の「できる女」なんですよ。海苔もきちんと密閉できる袋に入れて保存していました。その姿を見て、あの塩むすびの美味しさは丁寧な暮らしの積み重ねから生まれるんだなと教えられました。

海苔の美味しい保存法

おにぎりに欠かせない焼き海苔。使い切れず、数日後に袋から出してみたら、パリパリ感が失われてしまったという経験のある人は少なくないはず。品質を保つには、残った海苔を袋ごとジッパー付き保存袋に入れて密閉し、冷蔵庫に入れておくのがおすすめ。長期保存したい場合は、冷凍もできる。

プロフィール

お笑い芸人/友近さん

【誕生日】1973年8月2日
【経歴】愛媛県松山市出身。2000年に吉本総合芸能学院(NSC)に入学。2002年、「R-1ぐらんぷり2002」でファイナル初進出。2003年にNHK上方漫才コンテスト優秀賞、NHK新人演芸大賞で大賞を受賞。2016年、水谷千重子「キーポンシャイニング歌謡祭」ツアースタート。水谷千重子のInstagram(インスタグラム)のフォロワーは36万人を超える。
【その他】俳優としても活躍し、2018年映画『嘘八百』で第28回日本映画批評家大賞助演女優賞を受賞。2011年愛媛県の伊予観光大使に就任。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)