「最後の最後まで調理場に」三國清三さん【インタビュー後編】~日々摘花 第13回~

コラム
「最後の最後まで調理場に」三國清三さん【インタビュー後編】~日々摘花 第13回~
「日々摘花(ひびてきか)」は、様々な分野の第一線で活躍する方々に、大切な人との別れやその後の日々について、自らの体験に基づいたヒントをいただく特別インタビュー企画です。

本編は、第13回のゲスト、三國清三さんの後編です。
「ムッシュ」の愛称で親しまれ、日本のフランス料理界の進展に大きく貢献した元帝国ホテル総料理長・村上信夫さんの推薦を受け、20歳にして在スイス日本大使館料理長として渡欧。村上さんとの出会いによって「人生が大きく変わった」という三國さん。
後編では、敬愛する村上料理長との温かな思い出と別れ、そして、ご自身のエンディングについてのお考えをうかがいました。

師匠・村上信夫料理長との三つの約束

ーー渡欧後は3年8カ月の在スイス日本大使館勤務を全うし、「ジラルデ」、「トロワグロ」、「アラン・シャペル」といった名だたるレストランで修業。28歳で帰国され、30歳の若さでオーナーシェフとして「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンされました。

三國さん:すべて「料理の神様」村上総理長の仰せに従ったまでです。僕の渡欧に際し、村上料理長は「これだけは約束してほしい」と3つのことをおっしゃいました。

「10年後は君たちの時代が来る。だから、10年間はしっかり修業をしてきなさい」
「稼いだお金はすべて自己投資しなさい。休みには一流レストランに行き、美術館をめぐるなどして、自分につぎ込みなさい」
「大使館に着いたら、必ずその晩にご挨拶に伺いなさい。そして、大使を必ず『閣下』と呼びなさい」。

3つ目の約束はとりわけ熱を込めておっしゃり、「必ず、『閣下』だよ」と何度も念を押されました。変わった約束だなと思いましたが、「神様」のお言葉に「なぜ」と聞くわけにもいきません。行きの飛行機で「閣下」と何度も唱えましてね。現地に到着してすぐに小木曽本雄大使ご夫妻のお部屋にうかがい、「閣下、どうかよろしくお願いいたします」って言ったんです。

するとご夫妻がお腹を抱えて笑い出し、「三國くん、戦争は終わったんだから、閣下はないだろう。大使でいいんだよ」と大使が話しかけてくれました。おかげで一気に打ち解け、ご夫妻にはずいぶん可愛がっていただきました。仕事ぶりも気に入られ、もともとは2年の任期でしたが、大使ご夫妻の帰国まで3年8カ月勤務しました。

帰国の前の晩、大使ご夫妻から、当初は僕を料理長として迎えることに難色を示されたとうかがいました。僕がおふたりの息子さんと同じ20歳だと聞き、若すぎるのではと考えたそうです。でも、村上料理長から「どうか私を信用して彼を連れて行ってやってください」と説得され、僕を採用したとのことでした。

そうした経緯を知り、あらためて村上料理長のお心づかいに胸を打たれました。大使館の料理長の仕事は大使ご夫妻の朝、昼、晩の食事を作ることが日課ですから、ご夫妻に可愛がられなければうまくいきません。村上料理長は在ベルギー大使館料理長のご経験もありましたから、すべて計算づくで「大使を『閣下』と呼びなさい」とおっしゃったのでしょう。

涙が止まらないから、あまりしたくない話

ーー10年後は君たちの時代が来る」という村上さんのお言葉も心に響きます。村上さんは三國さんの独立も喜ばれていたでしょうね。

三國さん:村上料理長はご自身と僕を重ね合わせていたところもあったのかもしれません。これも後に知ったことですが、村上料理長は早くにご両親を亡くされて小学校卒業とともに料理の世界に入り、帝国ホテルに憧れて18歳から調理場で皿洗いをしたそうなんです。

また、定年後、ご自分のお店を持ちたいとお考えになっていましたが、あれだけの功績のある方ですから、自由気ままには動けず、実現はかないませんでした。それだけに、僕を応援してくださっていたのだと思います。店にもしょっちゅう来てくれました。

毎年お誕生日には「ムッシュを囲む会」が開かれましてね。弟子が50人、60人集まってお祝いをするんです。先輩方がずらりと揃い、僕は下っ端の下っ端。それにもかかわらず、最後のご挨拶の役をよくご指名いただいて、恐縮したものです。

村上料理長は柔道が好きで、83歳まで道場に通っていらっしゃいましたが、膝を傷められましてね。84歳の「ムッシュを囲む会」では、初めて車椅子でいらっしゃいました。別れ際に、「ムッシュ、今度、お寿司をぜひ」に申し上げたら、「おお。行こう、行こう」とうれしそうにおっしゃり、それが最後の会話になりました。

ご家族によると、他界された前の晩もお酒を飲んで帰宅されたそうです。いつもの時間に起きてこないのでお部屋に行ったら、すでに息を引き取っていたとのことでした。葬儀に参列させていただき、出棺後はご家族のみでお見送りをするとうかがって遠慮させていただくつもりでしたが、お誘いを受け、一緒にお骨を拾わせてもらいました。

その時に、ご家族が「父は家では仕事の話を一切しなかったけれど、あなたのことだけはいつも話していたんですよ。すごい奴がいる、って」とおっしゃったんです。感無量でしたね。思い返すたびに、涙が止まりません。

ーー泣かせてしまい、申し訳ありません。

三國さん:本当ですよ! だから、この話はあまりしたくないんです(笑)。

大使が奥様に内緒で召し上がったウナギ

ーーご自身の人生の締めくくりについて、何かお考えになっていることはありますか?

三國さん:村上料理長のように、最後の最後まで調理場に立ちたいです。ひとり娘に迷惑をかけたくない、とも思っています。だから、今、構想を練っているのは、介護付有料老人ホームに「ミクニ」のレストランを出店して、いずれは僕もそこに住み、料理をすること。いいアイデアでしょう?

ーー要介護期も三國さんのお料理をいただけば、生き生きとした毎日を過ごせそうです。そう言えば、三國さんは15年以上前から病院食のプロデュースもされています。病院食は見た目や味が二の次になりがちで、当時は料理人さんが積極的に携わるジャンルではなかったと聞きます。病院食に特別な思いがあったのでしょうか?

三國さん:親戚が亡くなった時に「最後くらい、好きなものを存分に食べさせてあげたかった」と遺族が悲しむ姿が忘れられなくてね。治療のためにやむを得ないことかもしれないけれど、家族としては後々まで心の痛みが残るんですよ。

一方、スイス時代から可愛がっていただいていた小木曽大使が亡くなった際に、奥様からうかがったお話がとても印象的だったんです。大使はウナギが好物でしたが、晩年は心臓病で食事制限があり、「食べたい」とおっしゃられても、奥様は止めざるを得なかったんですね。

ところが、ある日、大使がおひとりで散歩に出かけ、「ウナギを食べてきた」とおっしゃったそうなんです。その翌日に心臓発作を起こし、帰らぬ人に。奥様は涙ながらに、「あの時の主人の顔がとてもうれしそうだったの。最後に大好きなウナギを食べられて、良かったわ」とおっしゃっていました。

病を抱えているからこそ、「食事が唯一の楽しみ」という人も多いはずです。美しく、おいしくて、心と体に優しい。そんな料理を提供することこそ、料理人の大事な役割ではないか。そう考えた時、即座に思い浮かんだのが、「キュイジーヌ・マンスール」。フランスの有名シェフ、ミシェル・ゲラールさんが提唱した「おいしくて食べて太らない料理」のことです。フランスで修業した1970年代には最先端の考え方で、僕も少なからず影響を受けました。

「皿の上の芸術」と、健康食の融合。そこにチャレンジしてみたい、と思っていた時にセコム医療システム株式会社から東京・四ツ谷に新たに作る病院の病院食や、病院内のレストランの業務指導をとご依頼があり、喜んでお受けしました。

おかげさまで大変好評で、メディアでも取り上げられましてね。何よりうれしいのは、病院食に関心を持つ料理人が以前より増え、今や有名ホテルやレストランが手がける病院食も珍しくなくなったこと。これは料理人の「生涯現役」を実現しやすくなるという面でも、いい潮流だと思っています。

大手ホテルでは、長年勤務してきた料理人がある程度の年齢になると事務職に異動になり、活力を失う人もいるという話を聞きます。ホテルの調理場は忙しく、年齢とともに体力の限界を感じやすいのは事実ですが、調理場に立ち続けたい人も多いはずです。病院食は年齢を重ねたからこその感覚を生かせますし、調理場もホテルのレストランに比べれば体力の負担が少ない。中高年の料理人の新たなステージとしても可能性のある分野だと思います。

ーー最後に、読者にお言葉をいただけますか?

三國さん:奈良・東大寺の管長さんだった故・北河原公典(きたがわらこうてん)さんからいただいた「日々好日(ひびこうじつ)」という言葉をずっと大事にしています。毎日を大切に、幸せを味わいながら過ごす。そうすれば、いつ人生が終わっても、悔いがないですよね。ありがたいことに、僕はいつ死んでもいいと思っていますよ。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
調理場を離れたくないので、観光の旅はあきらめています(笑)。ただ、散骨してほしい場所を3カ所決めています。増毛の海と、修業時代の思い出がいっぱいのフランス・セーヌ河。そして、スイスのレマン湖です。在スイス日本大使館の料理長時代、休みの日にはレマン湖近くのレストラン「オテル・ドゥ・ヴィル」(後の三つ星レストラン「ジラルデ」)まで通い、フレディ・ジラルデさんのもとで修業しました。「オテル・ドゥ・ミクニ」は師匠・ジラルデさんのこのお店の名前が由来です。

レマン湖への旅

レマン湖はスイス南西部、フランスとの国境に位置する、スイス最大の湖。三國さんがかつて修業した「オテル・ドゥ・ヴィル」はレマン湖地方、ローザンヌ郊外クリシエ村にあり、オーナーシェフのフレディ・ジラルデ氏が1971年に村の市庁舎だった場所を買い取ってレストランを始めた。レマン湖地方はフランス語圏で、フランス料理の有名店が多い。

プロフィール

「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフ/三國清三さん

【誕生日】1954年8月10日
【経歴】北海道・増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテル、帝国ホテルにて修業。1974年、在スイス日本大使館の料理長に就任。フランス、スイスの複数の三つ星レストランで修業後、1982年に帰国。1985年、東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン。
【音楽】徳永英明「レイニーブルー」/矢沢永吉「時間よ止まれ」「チャイナタウン」/八代亜紀「舟唄」/セルジオ・メンデス「マシュ・ケ・ナダ」
【映画】「ロッキー」シリーズ/「男はつらいよ」シリーズ/「駅 STATION」(主演・高倉健)
【そのほか】2013年11月、フランスの食文化への功績が認められ、フランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与される。2015年には、ナポレオン・ボナパルトにより1802年に創設されたフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール勲章シュバリエ」を日本の料理人として初めて受勲。ラグビーワールドカップ2019組織委員会顧問を務めるなど幅広い分野で活躍中。

Information

「シェフ三國の簡単レシピ」と題し、動画投稿サイト「YouTube」にレシピ動画を投稿している。2021年5月、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言下で、家での時間を少しでも楽しんでもらえるようにと始めた。毎日欠かさず発信し、2021年7月現在、更新回数は400回以上。「じゃがいものピューレ」「きゅうりの冷たいスープ」といった、フランス料理をベースにした本格的な味でありながら、身近な食材を使って短時間で作れるレシピを紹介し、三國さんのチャーミングなキャラクターも話題。チャンネル登録者数はもうすぐ16万人に達する勢い。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)