「『別れ』によって、新たに築かれる関係性もある」小島慶子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第11回~
コラム
「日々摘花(ひびてきか)」は、様々な分野の第一線で活躍する方々に、大切な人との別れやその後の日々について、自らの体験に基づいたヒントをいただく特別インタビュー企画です。
本編は、第11回のゲスト、タレント/エッセイスト・小島慶子さんの後編です。
本編は、第11回のゲスト、タレント/エッセイスト・小島慶子さんの後編です。
前編では、2018年に他界したお父様を看取った時間を振り返り、「生きることの尊さを教わった」と話してくださった小島さん。お父様が亡くなって3年経った今、その存在をどのように感じ、ご自身にはどんな変化があったのでしょうか。
機上からの父へのメール。「パパも大変だったね」
ーーお父様が亡くなって3年。今はその存在をどのようにお感じになっていますか?
小島さん:生きている時の父は私にとって知っているようで知らない存在だったのですが、亡くなってからの方がはるかに近い存在になりました。今はまだつらくて読み返せないのですが、父との間で時々やりとりをしていたメールの内容を思い出したりします。
私は夫の退職を機に41歳で一家の大黒柱となり、日本で働いて、子供の学校の長期休みにはオーストラリアに戻るという生活を送ってきました。ある時ふと、飛行機に揺られながら父のことを思い出したんですね。商社マンだった父も、かつては家族の暮らしを支えるために頻繁に飛行機に乗る生活をしていて、しんどいこともあっただろうなと。父の苦労が初めてわかった気がして、「パパも大変だったね」というようなことをメールに書いたら、すごくうれしそうな返事が返ってきました。
母も姉も専業主婦でしたから、大黒柱としての父の孤独としんどさを理解できた人間は、家族の中で唯一私だけだったかもしれません。コロナ禍で、オーストラリアで暮らす夫や息子たちと1年以上離れて日本で仕事をする今、大黒柱のつらさを感じることもあります。そんな時に、父ともっといろんなことを話せばよかったなと思います。
日常の中で父を思い出すことも増えました。父はシルクロードが大好きだったので、テレビでシルクロードの特集番組をやっていたりすると、「パパに見せてあげたかったな。あ、でも、魂はどこにでも行けるから、シルクロードにはきっともう行っているよね。今なら、普通の人は入れない石窟の奥まで自由に見られていいな」なんて心の中の父に話しかけたりして(笑)。
父が生きているころ、父のことを思い出すのは、誕生日と父の日くらいでした。それなのに、不思議ですね。父の肉体はこの世に存在しなくなったのに、私の意識の中での父の「登板率」は高くなり、父の存在感が増しています。父が心に現れるとうれしい半面、悲しくもありますが、私と父は今、すごくいい関係ですね。
小島さん:生きている時の父は私にとって知っているようで知らない存在だったのですが、亡くなってからの方がはるかに近い存在になりました。今はまだつらくて読み返せないのですが、父との間で時々やりとりをしていたメールの内容を思い出したりします。
私は夫の退職を機に41歳で一家の大黒柱となり、日本で働いて、子供の学校の長期休みにはオーストラリアに戻るという生活を送ってきました。ある時ふと、飛行機に揺られながら父のことを思い出したんですね。商社マンだった父も、かつては家族の暮らしを支えるために頻繁に飛行機に乗る生活をしていて、しんどいこともあっただろうなと。父の苦労が初めてわかった気がして、「パパも大変だったね」というようなことをメールに書いたら、すごくうれしそうな返事が返ってきました。
母も姉も専業主婦でしたから、大黒柱としての父の孤独としんどさを理解できた人間は、家族の中で唯一私だけだったかもしれません。コロナ禍で、オーストラリアで暮らす夫や息子たちと1年以上離れて日本で仕事をする今、大黒柱のつらさを感じることもあります。そんな時に、父ともっといろんなことを話せばよかったなと思います。
日常の中で父を思い出すことも増えました。父はシルクロードが大好きだったので、テレビでシルクロードの特集番組をやっていたりすると、「パパに見せてあげたかったな。あ、でも、魂はどこにでも行けるから、シルクロードにはきっともう行っているよね。今なら、普通の人は入れない石窟の奥まで自由に見られていいな」なんて心の中の父に話しかけたりして(笑)。
父が生きているころ、父のことを思い出すのは、誕生日と父の日くらいでした。それなのに、不思議ですね。父の肉体はこの世に存在しなくなったのに、私の意識の中での父の「登板率」は高くなり、父の存在感が増しています。父が心に現れるとうれしい半面、悲しくもありますが、私と父は今、すごくいい関係ですね。
息を引き取った直後、父の身体に異変が……
ーーお父様の他界によって、お母様やお姉様との関係に変化はありましたか?
小島さん:母がひとりで暮らすようになり、やはり心配なので、連絡の回数が増えました。姉とも、高齢の母をどう支えていくかということで以前より話をするようになり、それぞれの接点は増えたように思います。
母と言えば、父が亡くなって間もなく、意外な姿を見ました。死後の処置のために看護師さんが父の足のつけ根に挿されていたカテーテルの管を抜いたあと、きれいに清拭していただいた父を見たら、浴衣のその場所がちょっと盛り上がっていたんですね。よせばいいのに看護師さんに「人って、死ぬと勃起するんですか」と聞いたら、「何てことを聞くんだ」と言いたげな表情で、「しません」ときっぱり否定されたのですが(笑)。
それでも何だか気になって、病室の隅でしょんぼりしている母と姉に小声で「何となく大きいよね」と目配せしました。すると、母が「あら」とつぶやいて父の股間にそっと手を置き、「お疲れさま」と言ったんです。あの時の母は何だかとても可愛くて、その姿が忘れられません。
母はよく父のことをぶつくさ言っていたけれど、何だかんだ、やっぱり頼っていたんですね。自分と夫の関係に照らし合わせ、夫婦間にはいろいろなことがあるけれど、夫婦であるというのは悪いことではないのかもしれないなと思わされました。
母と姉、私の間にはずっと、母子・姉妹の複雑な関係がありました。今もそれが完全になくなったわけではありませんが、あの場をシェアできたのは、家族だからこそ。思いがけず垣間見た、父と母の夫婦としての佇まいでした。
小島さん:母がひとりで暮らすようになり、やはり心配なので、連絡の回数が増えました。姉とも、高齢の母をどう支えていくかということで以前より話をするようになり、それぞれの接点は増えたように思います。
母と言えば、父が亡くなって間もなく、意外な姿を見ました。死後の処置のために看護師さんが父の足のつけ根に挿されていたカテーテルの管を抜いたあと、きれいに清拭していただいた父を見たら、浴衣のその場所がちょっと盛り上がっていたんですね。よせばいいのに看護師さんに「人って、死ぬと勃起するんですか」と聞いたら、「何てことを聞くんだ」と言いたげな表情で、「しません」ときっぱり否定されたのですが(笑)。
それでも何だか気になって、病室の隅でしょんぼりしている母と姉に小声で「何となく大きいよね」と目配せしました。すると、母が「あら」とつぶやいて父の股間にそっと手を置き、「お疲れさま」と言ったんです。あの時の母は何だかとても可愛くて、その姿が忘れられません。
母はよく父のことをぶつくさ言っていたけれど、何だかんだ、やっぱり頼っていたんですね。自分と夫の関係に照らし合わせ、夫婦間にはいろいろなことがあるけれど、夫婦であるというのは悪いことではないのかもしれないなと思わされました。
母と姉、私の間にはずっと、母子・姉妹の複雑な関係がありました。今もそれが完全になくなったわけではありませんが、あの場をシェアできたのは、家族だからこそ。思いがけず垣間見た、父と母の夫婦としての佇まいでした。
故人との関係は常に更新されていく
ーーお父様はエンディング・ノートを残されていたそうですね。
小島さん: 父は他界する20年ほど前にも脳梗塞で倒れ、その後心筋梗塞で手術を受けたこともあったので、自分の最期がどうありたいかということを何年もかけて考えていたんでしょうね。万が一の時の段取りがわかる資料をクリアファイルにまとめていました。それがもう、完璧な仕事だったんですよ。
自分で選んだ葬儀社と葬儀の内容が書かれていて、祭壇の花の色は白。BGMはクミコさんの「マイ・ウェイ」と決め、CDが準備されており、何曲目に収録されているかまで書かれていました。遺影は数年前に自宅で自撮りしてCD-ROMに保存してあり、これがまたよく撮れていて(笑)。連絡先リストは6年前に作成して定期的に書き直しており、最後の更新は亡くなる3週間くらい前。私が東京で暮らしている部屋の新住所を書き入れていました。
私たちは葬儀の段取りをこのファイルに書いてある通りにやればよかったので、すごく助かりましたね。おかげで忙殺されず、父との別れをちゃんと悲しめたんです。
ーー遺されたご家族が困らないように、というお父様の愛情を感じます。
小島さん:「こんなに用意をしてくれていたの?」と父への信頼と感謝を感じましたね。ただ、これほどまでに準備万端だったのに、父が亡くなって3年が経とうとするつい最近、私が痛恨のミスをしていたことが発覚したんですよ。
ーー何が起きたのでしょうか。
小島さん:父の辞世の句があったんです。いくつかの候補から選び、推敲を重ねた句で、それを私が色紙に墨で書き、葬儀会場に飾ったんですね。今は実家にあるのですが、今年になってその句の中の一文字が間違っていたことに気づきました。色紙には「ありがとう 告げて背に聞く 萩の声」と書いたのですが、ふとファイルを確認したところ、「萩」ではなく「荻」だったんです。
ーーなんと!
小島さん:萩の花は音のイメージがなかったので、「萩の声」というのは独創的な表現だなとは思っていたのですが……。「パパ、本当にごめん」と父に謝りました。葬儀の間も、父は「萩じゃないよ」と苦笑いしていたと思います。
父の葬儀では、私の次男のお別れの手紙が「じいじ、元気?」から始まっていて思わず吹き出しそうになったり、父の指定したBGMがなかなか流れなくて気が気じゃなかったり、コメディのようなできごともありました。父の死は今も悲しいけれど、父との最後の別れの日々を思い返すと、家族団欒の時を過ごしたような、温かな感じがします。
ーー素敵ですね。最後に、読者の皆さんにお言葉をいただけますか?
小島さん:「今、ここ」という言葉を贈りたいと思います。以前、養老孟司さんが「人間の頭は新しいことや未来のことなどドーパミンが出ることに向かいがちだけど、今ここにあることをちゃんと味わって、そこに感覚を集中させると自由になれるんだよ」とおっしゃって、私もそう心がけています。
それから、もうひとつ。私は実家の家族と一緒にいると心がざわざわして、ある程度の距離を置かないとつき合えず、父とも何年も会っていなかったんですね。一方で、会えないからこそ、話す時には「今回が最後かもしれない」と思って話をしていました。また、父が倒れた時にたまたま日本にいて、たった12時間ではありましたが一緒にいられたことは、本当に幸運でした。おかげで、悔いがありません。
だから、思うんです。親しい誰かを亡くすということはつらいことだけど、最後の別れをしっかりと味わうことはとても大切なことだと。ただ、さまざまな事情でそれができないこともあります。その時に、取り返しがつかないとは考えないでいただきたいなとお伝えしたいですね。私と父の関係のように、誰かが亡くなってから取り戻せたり、亡くなってから新しく築かれる関係もあると思うんです。
死後の世界や魂があるかどうかはわからないけれど、肉体の有無がその人の存在の有無かと言うと、決してそうではないと思います。レスポンスが得られなくても、亡くなった誰かと自分の関係は常に更新されていく。その関係が更新される限りは、一緒に生きているということなのではないでしょうか。
小島さん: 父は他界する20年ほど前にも脳梗塞で倒れ、その後心筋梗塞で手術を受けたこともあったので、自分の最期がどうありたいかということを何年もかけて考えていたんでしょうね。万が一の時の段取りがわかる資料をクリアファイルにまとめていました。それがもう、完璧な仕事だったんですよ。
自分で選んだ葬儀社と葬儀の内容が書かれていて、祭壇の花の色は白。BGMはクミコさんの「マイ・ウェイ」と決め、CDが準備されており、何曲目に収録されているかまで書かれていました。遺影は数年前に自宅で自撮りしてCD-ROMに保存してあり、これがまたよく撮れていて(笑)。連絡先リストは6年前に作成して定期的に書き直しており、最後の更新は亡くなる3週間くらい前。私が東京で暮らしている部屋の新住所を書き入れていました。
私たちは葬儀の段取りをこのファイルに書いてある通りにやればよかったので、すごく助かりましたね。おかげで忙殺されず、父との別れをちゃんと悲しめたんです。
ーー遺されたご家族が困らないように、というお父様の愛情を感じます。
小島さん:「こんなに用意をしてくれていたの?」と父への信頼と感謝を感じましたね。ただ、これほどまでに準備万端だったのに、父が亡くなって3年が経とうとするつい最近、私が痛恨のミスをしていたことが発覚したんですよ。
ーー何が起きたのでしょうか。
小島さん:父の辞世の句があったんです。いくつかの候補から選び、推敲を重ねた句で、それを私が色紙に墨で書き、葬儀会場に飾ったんですね。今は実家にあるのですが、今年になってその句の中の一文字が間違っていたことに気づきました。色紙には「ありがとう 告げて背に聞く 萩の声」と書いたのですが、ふとファイルを確認したところ、「萩」ではなく「荻」だったんです。
ーーなんと!
小島さん:萩の花は音のイメージがなかったので、「萩の声」というのは独創的な表現だなとは思っていたのですが……。「パパ、本当にごめん」と父に謝りました。葬儀の間も、父は「萩じゃないよ」と苦笑いしていたと思います。
父の葬儀では、私の次男のお別れの手紙が「じいじ、元気?」から始まっていて思わず吹き出しそうになったり、父の指定したBGMがなかなか流れなくて気が気じゃなかったり、コメディのようなできごともありました。父の死は今も悲しいけれど、父との最後の別れの日々を思い返すと、家族団欒の時を過ごしたような、温かな感じがします。
ーー素敵ですね。最後に、読者の皆さんにお言葉をいただけますか?
小島さん:「今、ここ」という言葉を贈りたいと思います。以前、養老孟司さんが「人間の頭は新しいことや未来のことなどドーパミンが出ることに向かいがちだけど、今ここにあることをちゃんと味わって、そこに感覚を集中させると自由になれるんだよ」とおっしゃって、私もそう心がけています。
それから、もうひとつ。私は実家の家族と一緒にいると心がざわざわして、ある程度の距離を置かないとつき合えず、父とも何年も会っていなかったんですね。一方で、会えないからこそ、話す時には「今回が最後かもしれない」と思って話をしていました。また、父が倒れた時にたまたま日本にいて、たった12時間ではありましたが一緒にいられたことは、本当に幸運でした。おかげで、悔いがありません。
だから、思うんです。親しい誰かを亡くすということはつらいことだけど、最後の別れをしっかりと味わうことはとても大切なことだと。ただ、さまざまな事情でそれができないこともあります。その時に、取り返しがつかないとは考えないでいただきたいなとお伝えしたいですね。私と父の関係のように、誰かが亡くなってから取り戻せたり、亡くなってから新しく築かれる関係もあると思うんです。
死後の世界や魂があるかどうかはわからないけれど、肉体の有無がその人の存在の有無かと言うと、決してそうではないと思います。レスポンスが得られなくても、亡くなった誰かと自分の関係は常に更新されていく。その関係が更新される限りは、一緒に生きているということなのではないでしょうか。
~EPISODE:癒しの隣に~
沈んだ気持ちを救ってくれた本や音楽は?
落ち込むと、最近は般若心経をよく読みます。ミュージアムショップで般若心経の本を見かけ、何気なく読んでみたら、韻の踏み方が気持ちよくて、バイブスがかっこいいなと(笑)。そこで、内容をしっかり読んだところ、わずか300字ほどの文字の中に宇宙の成り立ちから人生の真理までが盛り込まれていて、そのすごさに感じ入りました。音声SNSアプリ「Clubhouse(クラブハウス)」に般若心経を聞く「ルーム」があり、聞きながら、一緒に読んだりしています。
般若心経
浄土宗、曹洞宗など複数の宗派で読まれ、仏教のお経の中でも多くの人に知られている「般若心経」。正式な名称は「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみたしんぎょう)。西遊記の「三蔵法師」として有名な、唐の時代の僧侶・玄奘(げんじょう)がインドから中国に持ち帰り、漢語に訳した「大般若経」600巻をまとめたものとされる。300字ほどの短い文章に大乗仏教の真髄となる教えが凝縮されており、さまざまな現代語訳や解説本も出版されている。
プロフィール
タレント・エッセイスト 小島慶子さん
【誕生日】1972年7月27日
【経歴】オーストラリア生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業後、1995年にTBSに入社。アナウンサーとしてテレビ、ラジオに出演する。2010年に退社後は各種メディア出演のほか、執筆・講演活動を精力的に行っている。『AERA』『VERY』『日経ARIA』など連載多数。東京大学大学院情報学環客員研究員、昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員。
【そのほか】2014年 オーストラリア・パースに教育移住。夫と息子たちが暮らすパースと、仕事場のある日本を往復する生活を続けている。
【公式ホームページ】https://www.applecross.jp/
【誕生日】1972年7月27日
【経歴】オーストラリア生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業後、1995年にTBSに入社。アナウンサーとしてテレビ、ラジオに出演する。2010年に退社後は各種メディア出演のほか、執筆・講演活動を精力的に行っている。『AERA』『VERY』『日経ARIA』など連載多数。東京大学大学院情報学環客員研究員、昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員。
【そのほか】2014年 オーストラリア・パースに教育移住。夫と息子たちが暮らすパースと、仕事場のある日本を往復する生活を続けている。
【公式ホームページ】https://www.applecross.jp/
Information
著書『曼荼羅家族』
雑誌『VERY』で10年続いた連載をまとめた『曼荼羅家族「もしかしてVERY失格!?」』(光文社)。一家の大黒柱として日本とオーストラリアを往復しながら読者の悩みに寄り添い、泣き、笑い、怒った、読者ママたちとの共感の記録。作家・白岩玄さんとのロング対談「男らしさの呪いを解く」も収録されている。
雑誌『VERY』で10年続いた連載をまとめた『曼荼羅家族「もしかしてVERY失格!?」』(光文社)。一家の大黒柱として日本とオーストラリアを往復しながら読者の悩みに寄り添い、泣き、笑い、怒った、読者ママたちとの共感の記録。作家・白岩玄さんとのロング対談「男らしさの呪いを解く」も収録されている。
(取材・文/泉 彩子 写真/鈴木 慶子)