「脇屋流“美味しいお墓まいり”」脇屋友詞さん【インタビュー後編】~日々摘花 第45回~

コラム
「脇屋流“美味しいお墓まいり”」脇屋友詞さん【インタビュー後編】~日々摘花 第45回~
2023年3月に料理人人生50周年を迎え、12月には銀座5丁目にカウンター8席と個室1室のみの「Ginza脇屋」、「蕎麦割烹 橙(だいだい)」をオープンするなど新たな挑戦を続ける脇屋友詞さん。後編では脇屋さんの人生観やこれからへの思いに迫ります。

心が揺れた時は「闇落ち」しない方を選ぶ

−−お父様が亡くなる間際にご家族のことを「頼むな」と遺言を残されたと伺いました。ご著書『厨房の哲学者』によると、最初の修業先の「山王飯店」時代から仕送りをしてご実家の生活を支えていたそうですね。ご長男とはいえ「なぜ自分が」とお感じになることはなかったのでしょうか。

脇屋さん:父に勝手に自分の職業を決められたことに対しては理不尽だと感じていましたが、長男として家族の生活を支えることに抵抗はなかったです。仕送りは、誰に言われたわけでもなく始めたこと。母や妹、弟の生活が少しでも楽になるなら、仕事にも張り合いが出ると思っていました。

「なぜ自分が」と思うと、どんどん重く感じるようになりますから、思わないようにしていたところもあります。天命を受け入れるとでも言うのでしょうか。誰かを助ける力が自分に授けられているのなら、その力を使うのは幸せなこと。物事は前向きに捉えた方が、人生が好転するような気がします。

そうは言っても、心の葛藤は常にありますよ。10数年前のこと。50万円ほどお金を拾ったことがあります。近くの交番に届けたところ、警察署に持って行くよう言われ、受付時間の関係でひと晩預かることになってしまったんですね。この時点で僕が拾ったお金を自分のものにしても誰にもバレません。そこで出てきたのが、「もらっちゃえば?」とささやく「ブラック脇屋」(笑)。「届けないと」と言う「ホワイト脇屋」とのせめぎ合いが始まり、結局「ホワイト脇屋」が勝って、翌朝、警察署に届けました。

脇屋さん:しばらく経って持ち主が現れ、お礼にと5万円をいただきました。それを社員10人に500円ずつわけたところ、「福があるから」と数人が今でも大事にしているらしいんです。何だか、うれしかったですね。以来、僕がお財布を失くしても、なぜか必ず見つかるんですよ。3回失くしてそのうち2回は海外でしたが、すぐに見つかりました。

単なる偶然かもしれませんが、「ホワイト脇屋」でいた方が気持ちいいし、起きた出来事を楽しめます。だから、心が揺れた時には「闇落ち」しない方を選ぶようにしています。

65歳で銀座に新店! たゆまず進む姿がお客さまの心にも火をつけた

−−脇屋さんは2023年に料理人人生50周年を迎えました。新店開業に向けて赤坂に物件を購入するための契約をした直後に東日本大震災が起きたり、コロナ禍の影響で横浜の「トゥーランドット游仙境」の閉店を決断されたり……。苦境に立たされたことも一度や二度ではなかったそうですね。

脇屋さん:東日本大震災が起きた時は、周りから「新店はあきらめた方がいい」と心配されました。でも、僕は「できない」「不可能だ」と言われても、「自分にはできる」と根拠もなく思ってしまうんです。

赤坂の物件は予定通りを購入し、「トゥーランドット臥龍居(がりゅうきょ)」と「Wakiya 迎賓茶樓(げいひんちゃろう)」をオープンしました。両店ともたくさんのお客さまにお越しいただき、コロナ禍も乗り越えて、現在は13年目です。
−−2023年12月には銀座5丁目に「Ginza脇屋」と「蕎麦割烹 橙」をオープンされました。蕎麦割烹を手がけられたのは初めて。また、「Ginza脇屋」はカウンター8席と個室1室のみのプライベートな空間で、脇屋さんが客前で腕を振るって窯料理を中心としたメニューを提供するというこれまでにはないお店です。

脇屋さん: 銀座の物件は自分の足で見つけました。横浜の「トゥーランドット游仙境」の閉店を決めたと同時に銀座の街を歩きはじめ、数カ月かけて土地を探してビルを建てました。

15歳で料理人の道に進んで以来、50年が経ちました。会社員なら多くの人がすでに定年を迎えている年齢です。「そろそろのんびりしたい」という気持ちもないわけではありません。でも、僕はやはり中国料理が好きなんです。父に勝手に決められた道だけど、中国料理の料理人として生きていくと決めたのは僕です。だから、この道で新しい景色を見続けたいと思っています。

僕と同世代の長年のお客さまで、事業で成功して家庭も円満、少し前にリタイアして悠々自適の生活を送っていた方がいましてね。「Ginza脇屋」をオープンしてすぐに来てくださり、翌朝、そのお客さまにメッセージをいただいたんです。

「昨日はありがとうございました。溌剌とした脇屋さんを拝見してものすごく刺激を受けました。半隠居生活で1年半ぐらい過ごしてきましたが、もうちょっとやろうという気概が湧いてきました」とあって、胸が熱くなりました。

ありがたいですよね。僕の姿を見てそんな風に感じてくださったなんて。「よし、じゃあ、頑張ろう」と僕の方こそ励まされました。
SS Co., Ltd. Shimao Nozomu
脇屋さん:一方で先日、悲しいこともありました。友人で、ニューヨークを代表するトップシェフのデイヴィッド・ブーレイさんの突然の他界です。70歳でした。数カ月後に予定していた来日時にうちの店にも来てくれるということで、「温泉に行くなら、南紀白浜がいいんじゃない?」などと観光のアドバイスまでしていた矢先でした。

ありがたいことに僕は健康そのものですが、この先、何があるかわかりません。だから、料理人として挑戦し続ける一方で、次世代への継承についても少しずつ準備をしていかなければと思っています。

15歳で出合った言葉を胸に、感謝を忘れない姿を子どもたちへ

−−プライベートでは、脇屋さんにはふたりのお子さんがいらっしゃいます。お子さんたちにこれだけは残したいというものはありますか。

脇屋さん:感謝の気持ちを忘れないでほしいですね。周囲に対する感謝も大事ですし、ご先祖さまに思いを馳せ、今、ここに自分があることをありがたく思う気持ちも大切だと思います

僕は宗教のことはよくわからないけど、毎日仏壇にお線香をあげて手を合わせ、「じゃあ、今日も行ってきます」と言って出かけます。いただきものや特別なものは、まずは仏壇に。本が完成した時もまずは仏壇に持って行き、両親やご先祖さまに報告しました。

お彼岸やお盆のお墓参りも欠かしません。お参りをしてすぐには帰らないのが我が家流。お弁当やらおやつを持って行き、お墓の前で、家族みんなでおいしく食べて、小一時間おしゃべりをします。型通りにお参りをして帰るより、ちょっとにぎやかな方がご先祖さまも寂しくないような気がするんですよね。

「感謝を大事に」と言葉で伝えなくても、僕自身が実践していたら、子どもたちも自然とそれを受け継いでくれるんじゃないかな、と思っています。
−−素敵ですね。最後に読者に向けて言葉のプレゼントをお願いします。

脇屋さん:15歳で赤坂「山王飯店」の厨房に見習いとして放り込まれ、厳しい修業に挫けそうになっていた時、「この道より我を生かす道なし この道を歩く」という言葉に出合い、どうしてだか目が離せなくなりました。何かを選ぶことの大切さをこの言葉に学び、覚悟を持って道を選んだことによって、僕の人生は始まりました。小説家の武者小路実篤さんの言葉だと知ったのはずいぶん後になってからです。僕の人生を変えたこの言葉を皆さんに贈ります。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
好きな音楽をかけ、お酒を飲みながら、家族や仲間と笑顔で食事をしたいです。料理は、もうすぐ大学生になる長男に作ってもらおうかな。僕は麺が好きなので、メニューにはおいしいスープ麺を入れてほしいですね。あとは任せます。

YouTube「Wakiya YujiのYUJI CHANNEL」

フォロワー7万人を超える脇屋さんのYouTubeチャンネル「Wakiya YujiのYUJI CHANNEL」。「15分で作る! つるつる箸が止まらないピリ辛担々うどん」「パラパラ炒飯のコツ」など家庭で気軽に作れる中国料理のレシピやコツをわかりやすく伝授してくれる。

プロフィール

中国料理シェフ/脇屋友詞(わきやゆうじ)さん

【誕生日】1958年3月20日
【経歴】北海道芦別市生まれ、札幌育ち。中学卒業後、赤坂「山王飯店」、自由が丘「桜蘭」、東京ヒルトンホテル/キャピトル東急ホテル「星ケ岡」などで修行を積み、27歳で「リーセントパークホテル」の中国料理部料理長、1992年に同ホテル総料理長に。1996年、「トゥーランドット游仙境」代表取締役総料理長に就任。2001年、東京・赤坂に「Wakiya一笑美茶樓」、2023年12月に「Ginza 脇屋」をオープン。東京で4店舗のオーナーシェフを務める。
【その他】2010年に「現代の名工」受賞。2014年、秋の叙勲にて黄綬褒章を受章。2023年から公益社団法人日本中国料理協会会長。2023年、料理人人生50年を綴った自伝『厨房の哲学者』が話題に。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)