「34歳の息子からの“最後の電話”」陸上競技指導者・瀬古利彦さん【インタビュー前編】~日々摘花 第44回~

コラム
「34歳の息子からの“最後の電話”」陸上競技指導者・瀬古利彦さん【インタビュー前編】~日々摘花 第44回~
日本の陸上競技界を牽引してきた元マラソンランナーの瀬古利彦さん。現役時代は世界を舞台に15戦10勝の圧倒的な強さを誇りましたが、オリンピックのメダルには縁がなく、ラストレースとなったソウルオリンピック(1988年)の結果は9位。失意の底にあった瀬古さんを支えたのは妻の美恵さんと当時2歳だった長男・昴さんの存在でした。前編では、2021年4月、34歳の若さでこの世を去った昴さんの思い出と別れについてお話を伺います。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

父は“脳筋”という息子に「お父さんの脳みそは足にあるんだ」

−−ご長男の昴さんが誕生されたのは1986年9月。その翌月に瀬古さんはシカゴマラソンに出場し、2時間8分27秒(自己最高記録)で優勝されました。

瀬古さん:父親としてかっこいいところを見せなければ、という思いはありました。「これで最後」と決めていたソウルオリンピックも、子どもに負ける姿を見せたくないと思って頑張りました。でも、結果は9位。打ちひしがれて帰宅すると、2歳になったばかりの昴が出迎えてくれ、抱っこをした私の首に手作りの金メダルをかけてくれました。これがそのメダルです。
瀬古さん:もう消えてしまって読めませんが、妻の字で「とっちゃん(瀬古さんの愛称)、ごくろうさま! 心から夢と愛と希望をありがとう」と記されていて、裏には昴が描いた絵のようなものがありました。泣けましたね。家族ってありがたい、子どもがいてよかった、と思いました。
−−昴さんをマラソンランナーに、とお考えになったことは?

瀬古さん:ないですね。子どもに何かを押し付けるようなことはしたくないし、昴も「陸上をやりたい」とは言いませんでした。私には4人息子がいますが、陸上選手になったのは三男だけです。

昴は私とは正反対のタイプで、子どものころから優しくてしっかりしていてね。「ありがとう」ってよく言っていましたし、いろいろなものを大事にしていました。誰が教えたわけでもないのに、使い古した歯ブラシひとつでも粗末にせず、お礼を言いながら捨てるような子でした。

親が言うのも変ですが、成績も優秀。私とは頭の中身が違いました。大学に進学してからは環境問題に関心を持ち、社会人になっても活動を続けていたようです。もうね、すごいんですよ。私がトイレの電気を消し忘れたりすると、飛んで来て消すの。家中どこへ行っても、消しに来るんです。「お父さん、ダメだよ。ちゃんと意識を持たないと」とよく諭されました。

昴は理論派で、私は感覚派。考え方が合わず、私が言うことには何でも「それは違う」と反対ばかり。「お父さんの脳みそは筋肉だから」とよく言われました。間違ってはいませんが、息子に言われたら腹が立ちますよ(笑)。「お父さんの脳みそは頭じゃなくて、足にあるんだ」と言い返したら、吹き出していました。

8年を超える闘病中、泣き言を一切言わなかった

−−昴さんは大学卒業後、一般企業を経て25歳の時に国際交流NGO「ピースボート」のスタッフとして働きはじめました。体調に異変があったのはそのころだったそうですね。

瀬古さん: 2012年の後半だったかな。ちょうど、私が長年監督を勤めていたエスビー食品陸上部の廃部が決まったころでした。「なんだか、胸が苦しい」と言い出し、そのうちに歩けなくなって、2013年6月にホジキンリンパ腫と診断されました。ホジキンリンパ腫というのは、血液のがんの一種です。早期発見できれば治る可能性の高いがんですが、昴の場合、病気がわかった時には骨に転移していました。

闘病生活は8年あまり。抗がん剤治療、放射線治療に始まり、骨髄移植、免疫治療とあらゆる治療を受けました。病状が落ち着いた時期もありましたが、再発を繰り返し、2020年2月には脳に腫瘍ができていることがわかりました。

治療の副作用や合併症もあって、どんなに痛く、苦しかっただろうと思います。でも昴は、いつも明るく、前向きでした。苦痛に耐えかね、妻にはつらさを訴えたこともあったようですが、私の前では泣き言を一切言いませんでした。男同士だから、意地もあったのかもしれません。

父と子の心をつないだマッサージの時間

−−瀬古さんご自身もマラソンランナーとして現役時代、どんなにつらい時も恩師の中村清監督には泣き言を言えなかったとご著書で読んだことがあります。

瀬古さん: 親子で似たところがあったんでしょうね。ただ、昴のつらさは私の想像を絶するものだったと思います。闘病中、昴は入院も多くて、病状が落ち着くと家に戻って療養していたのですが、自宅療養中もすごく疲れるみたいで。肩なんて、ガチガチに凝ってね。亡くなる2年ぐらい前だったかな。珍しく昴からマッサージをしてほしいと頼まれました。二つ返事でスポーツマッサージをするとうれしそうな表情をしたのを覚えています。

その日からマッサージが日課のようになり、数カ月経ったころ、昴が「僕ね、お父さんのマッサージが一日の中で一番の楽しみ」って言ったんです。そんなことを言われたら、やらないわけにはいかないですよね(笑)。コロナ禍になってからは私が家にいる時間も増えて、最後の入院までほぼ毎日、30〜40分のマッサージを続けました。

最後に入院したのは、2021年3月28日。「腰が痛いから、病院に行ってくる。1週間で帰ってくるよ」と言って出かけたまま、帰って来ませんでした。亡くなる1週間ほど前に、昴から電話があったんです。すぐに出られなかったので折り返したら、「僕が一番大事な時に、何でお父さんは電話に出ないんだ!」と怒られた後、「僕ね、もう声が出なくなるからよく聞いて。お父さん、大好きだよ」と言われました。これが、昴から私への最後の言葉になりました。

「お父さん、大好き」なんて、初めてですよ。あいつから言われたのは。最後の最後になって、何なんでしょうね。昴の前では絶対に泣かないと決めていたけれど、こらえきれませんでした。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
レースや仕事で世界中を周りましたから、いろいろな場所に思い出があります。1カ所選ぶとすれば、スペイン・マドリードの中心部にある「リストランテ・ソブリノ・デ・ボティン」。ヘミングウェイが通ったというレストランで、「子豚の丸焼きロースト」が絶品です。パリパリに焼いた皮が香ばしくて、ビールが進みました。異国の空の下、気心の知れた仲間と食べて、飲んで。最高の時間でしたね。

リストランテ・ソブリノ・デ・ボティン

プエルタ・デル・ソル(太陽の門)、マヨール広場などの観光スポットやショッピング街などマドリードの見所が集まるセントロ地区で1725年から営業を続けている「リストランテ・ソブリノ・デ・ボティン」。世界で最も古いレストランとしてギネス世界記録に認定されている。マドリードのあるカスティーリャ地方の伝統料理を提供し、スペシャリテの「子豚の丸焼きロースト」はヘミングウェイの小説『日はまた登る』にも登場している。

プロフィール

陸上競技指導者/瀬古利彦さん

【誕生日】1956年7月15日
【経歴】三重県桑名市出身。高校時代から陸上を始め、早稲田大学入学後、マラソンランナーとしての才能を開花。現役時代は国内外のマラソンで15戦10勝の戦績を残した。ロサンゼルス、ソウル五輪マラソン日本代表。現役引退後は後進の育成に注力し、エスビー食品陸上競技部監督、横浜DeNAランニングクラブ総監督などを経て、2019年よりDeNAアスレティックスエリートアドバイザー。2016年より日本陸上競技連盟強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任し、同連副会長を歴任後、現在は評議員を務める。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)