「みっともないまでに長生きしたい」佐野史郎さん【インタビュー後編】~日々摘花 第35回~

コラム
「みっともないまでに長生きしたい」佐野史郎さん【インタビュー後編】~日々摘花 第35回~
2021年、66歳の時に血液のがんの一種である「多発性骨髄腫」を発症し、2度の入院を経て、2022年3月に撮影現場に復帰した佐野さん。現在は映画やドラマへの出演、小泉八雲の朗読、バンド活動と精力的に活動されていますが、一時は「死を覚悟した」と言います。後編では入院中の経験や、大病を経験した事による死生観の変化などについてうかがいます。

敗血症で重篤な状態に。「もうこれまでだ」と思った

−−佐野さんが医師から「多発性骨髄腫」と診断されたのは2021年5月だったそうですね。多発性骨髄腫は白血球の一種の「形質細胞」ががん化し、正常な抗体が作れなくなる病気で、5年生存率はおよそ40%です。告知を受けた時は、驚かれたのではないでしょうか。

佐野さん:それが、冷静だったんですよ。病名はたまたま知っていて、大きな病気だということもわかっていましたが、どこか他人事のように感じられて。「で、どうしたらいいですかね」と医師に聞いたりしていました。

担当の医師の「多発性骨髄種です」という言い方がすごく良かったんですよ。表情も間も声のトーンもね。がんの宣告をする医師というのは実際にはこんな感じなんだ、と思いました。入院中も医師や看護師の表情や振る舞いが役者として気になって、「今のセリフのタイミングはいいな」「こういう芝居をしたら、伝わらないな」なんて(笑)。

職業病でもあるんでしょうけど、人間観察をするのは子どものころからの癖ですよね。松江の地で小学校からの10年間、大家族で大人に囲まれて暮らして、常に「この人の言っていることは本当なのかな」と考えながら相手と接するようなところがありましたから。まあ、もともとの性格も折り合いをつけ、争いごとを好まず。でも、これはという本質的なことは曲げないという感じで、病気に対しても、防衛本能みたいなものが働いたんだと思います。
−−ただ、病状は予想以上に深刻だったそうですね。

佐野さん:腎機能が落ちていたので、がんの治療の前にその回復をということですぐに入院し、最初はステロイド剤の点滴を受けました。すると、腎機能は改善したのですが、免疫力が低下して敗血症を起こし、39度の熱が2週間ほど続きました。

抗生剤を3、4種類試しましたが、どれも効かず、高熱の影響で体中の骨が痛くて意識が朦朧とし、あまりのしんどさに「もうこれまでだ」と思いました。別に暗い気持ちではなかったし、それどころか、「こんな楽しい人生を送らせてもらって、このまま亡くなっても悔いはない」と覚悟を決めるような感じがあって。

一方で、ひとり病院のベッドで「いやいや、まだまだ」と言う自分がいたんですよ。そのセリフの嘘くさいこと(笑)。重篤な状態で、心から「もうダメだ」と思っているのに、「まだ生きなきゃ」なんて言って下手な芝居をしてしまう自分に腹が立って、おかしくて。「何だ、これ」と思ったら、よくわからない力が内側から湧いてきて、翌日から熱が下がっていったんです。
−−なんと。

佐野さん:この時に感じたのですが、やっぱり、「言霊」ってあるんだと思います。振り返ってみれば、病気になる前の数年間は身近な方たちが立て続けに亡くなったこともあって、「次は俺かな」なんてことをよく言っていたんです。体はわかっていたんでしょうね、ネガティブな言葉として表れ、病気の発見にもつながったのかもしれません。

誰ひとり観客もいないのに芝居をしてしまったあの時の、「いやいや、まだまだ」というセリフは嘘くさかったけれど、その言葉を細胞に届けることで、体はやっぱり正直に反応したんでしょうね。だから、あれ以来、なるべく希望を持てるような、元気になるような言葉を口にした方がいいなというのは、ちょっと思っています。

「不幸の手紙」を次世代に回したくない

−−ご自身の死を意識された時、ご家族の顔を思い浮かべたりはしましたか。

佐野さん:妻や娘のことは、頭をよぎりました。でも、まあ、僕が心配したところでどうにもならないですからね(笑)。

ただ、母が91歳でまだ存命なので、母より先には逝けないなという思いはありました。母は松江の実家で暮らし続けていて、長男の僕が家のことを受け継ぐことを望んでいます。俳優としては応援してくれていますけど、それでも家は家業を継いだ弟ではなく、長男が継がなければならないという家の物語の呪縛にとらわれているのです。150年に渡って続いてきた佐野家の物語が自分の目の前で幕を下ろすなんてことは、母には到底受け入れられないのでしょう。

実家やお墓をこの先どうするか、というのは今や社会問題で、松江の家のことも、僕の家族、親族だけの問題だけではないのかもしれません。でも、母はもう高齢ですから、彼女の見ている家の物語のシナリオを演じきり、最後まで夢を見せてあげたい、という思いはありますけれど。
−−「家のこと」は、家族、親族それぞれの思いがあって、簡単には決着がつかないですよね。

佐野さん:家やお墓のこともそうですが、価値観や国家観、道徳、しきたりといった過去から脈々と受け継がれてきた「物語」の、それぞれの時代のゆがみをどう修正していくのかというのは、日本中の至るところで起きている問題ですよね。

僕の親くらいの世代までは、家父長制度が色濃い社会に生まれ、戦争があるなど、情報も限られた中、先達が作った物語を「正しいもの」と信じて生きざるを得なかったところもあったかもしれません。そうやって作り上げられてきた物語はちょっとやそっとのことではひっくり返せないし、その物語を全否定するのは、それを信じてきた人たちの人生を丸ごと否定するようなもの。やっぱりちょっとかわいそうで、僕にはできません。
でも、作り上げられてきた“一家の物語”を次の世代に強いるのは、「不幸の手紙」を回すようなものにも思え、僕自身は回しません。一方で、受け継がれてきた物語の中には、僕自身が残せたらいいなと思うことはたくさんあります。受け取った物語を鵜呑みにするのではなく、家をリノベーションするように再構築していけたら、世代間で傷つけ合わず、共存できるような空間が生み出せるんじゃないかなと考えたりもしています。

誰かの「物語」を鵜呑みにしてはいけない

−−2021年5月の最初の入院では2カ月ほぼ寝たきりで、同年11月に再入院をしてご自分の造血管細胞を移植。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け、体重も7〜8キロ落ちるなど大変な治療だったそうですね。

佐野さん:もう1回あれをやれと言われたら、確かに嫌です(笑)。ただ、医師から治療計画をしっかりご説明いただきましたし、血液内科の領域はがんの中でも治療方法が非常に発達していると聞いていたので、医療チームの皆さんを信頼し、僕も患者として一つ一つの過程をコツコツとやっていきました。俳優の作業と同じですよ。膨大なセリフも、一言、一行ずつ、一音ずつ体に入れていくしかないですから。
SNSで同じ病気の方々とやりとりをさせていただきながら、つくづく思うのですが、病気の治療というのはものすごく個人差がありますよね。自家移植をするにはいくつかの段階があって、僕はたまたま自分に合う治療薬があり、体力的にも耐えられたけれど、そうでない方もいる。だから、僕の治療方法はあくまでも参考として捉えていただき、主治医の方々との信頼関係を構築していっていただけたらと思います。
−−2022年3月に俳優としての活動を再開され、予後も良好とのこと。死を覚悟するような経験を乗り越えられて、死生観に変化はありましたか。

佐野さん:変化ではありませんが確信には変わったかもしれません。子供のころから僕の中では過去も現在も並列なんです。時間の感覚のみならず、できごとも、場所も、人生の何もかもが優劣、上下なく並んでいて、その中で自分の信じるもの、大切なものは鮮明に残っていて、忘れることは昨日のことでも無意識に忘れていく。

生きていても、過去に生きた時間の体は死んでいるようなものだし、今生きているからこそ、その死んだ時間の感覚を今として生きることができる。結局、大事なのは一瞬一瞬に向き合い、“自分で”味わうことだと思います。以前から感じていたことではありますが、死を間近に意識する経験をして、“与えられた物語”を鵜呑みにしてはいけないな、という思いがより強まりました。

これもまた俳優の作業と同じなのですが、“与えられた物語”を鵜呑みにし、表面上のストーリーを説明的に表現したところで、自分自身の心や体は動かないと思うんですよね。まあ、ずっと信じてきた“自分”や“自分の人生”を動かされることを、どこまでも拒絶する人も少なくはないでしょうけれど。

あとは、退院直後はあらゆるものが新鮮でした。蚊も殺せなかったし、街を歩いていても草花からビル、電車まで輝いて見え、存在するものは皆同じで、人間だけが特別ではない、と思いました。赤ちゃんが初めてものを見るような感じで、詩を読んでも一行一行が染み渡るように体に入ってくるんです。

あのまま続けば良かったのですが、3カ月ほどで体が元気になっていくのと反比例に元通りにサビついていきました。今ではゴキブリを殺虫剤で仕留めても、ものの見事に何とも思いません。体の回復とともに感覚が鈍くなってしまったのは残念ですが、なくしていたものを思い出すような経験ができたのは悪くなかったと思います。
−−今後の人生について、どのように考えていらっしゃいますか。

佐野さん:それはもう、みっともないまでに長生きしたいです。「このジジイ、まだ生きている」と言われながら、生きたいですね。「昔のことを知っている、厄介な奴だ」と疎まれつつ(笑)。僕自身の物語の一番面白い結末はそれかな、と考えています。
−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。
佐野さん:「塞翁が馬」という言葉をよく口にします。一見幸せなことが不幸せに転じたり、不幸せだと思ったことが幸せに転じたりする。僕自身これまでずっとそうでしたし、今回の病気を経験して、改めて実感しました。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
宍道湖(しんじこ)のほとりで夕日を見たいです。これは、祖先から受け継いできた細胞の声なのかもしれません。父方、母方の実家ともに出雲で代々続いている家系ですから。数百年の間、地形の変化こそあれ夕日は変わっていないと思うので、最後なら、自分の中の古代から受け継ぐ細胞にあの光景を見せてあげたいですね。
#宍道湖の夕日
島根県北東部、松江市と出雲市にまたがる宍道湖。周囲約47キロメートル、国内で7番目に大きい湖です。夕日の景観が美しく、「日本の夕陽百選」(NPO法人日本列島夕陽と朝日の郷づくり協会選定)に選ばれています。

プロフィール

俳優/佐野史郎さん

【誕生日】1955年3月4日
【経歴】島根県松江市出身。1975年、劇団「シェイクスピアシアター」の旗揚げに参加。退団後、唐十郎が主宰する「状況劇場」を経て、1986年「夢みるように眠りたい」(林海象監督)で映画デビュー。以降、数多くの映画・TV・舞台に出演するほか、写真、執筆、音楽、など多方面で活躍中。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)