「“名伯楽”に教わったこと」赤井英和さん【インタビュー後編】~日々摘花 第33回~

コラム
「“名伯楽”に教わったこと」赤井英和さん【インタビュー後編】~日々摘花 第33回~
最近では妻の佳子さんのSNSから垣間見える日常の姿が「かわいい」と話題の赤井さんですが、俳優になる前は「浪速のロッキー」の異名をとる筋金入りのボクサー。長男でプロボクサーの赤井英五郎さんが監督・編集し、2022年に公開されたドキュメンタリー映画『AKAI』にはその姿が存分に映し出されています。

恩師・エディは常に「選手が一番」

−−映画『AKAI』で現役ボクサー時代の赤井さんの映像を拝見し、闘うお姿はもちろん、ご家族や大阪の町の人たちなど周りとの関係性も印象的でした。とくにトレーナーの故エディ・タウンゼントさんが赤井さんにかけられたいくつかの言葉が心に残りました。

赤井さん: エディさん……。お話の途中に失礼ですが、ちょっといいですか?
(立ち上がって編集部を自室に招き入れ、お子さんたちの絵や家族写真などと一緒に壁に飾られたエディさんの写真を見せてくださる)

赤井さん:ご存知だと思いますが、エディさんは「名伯楽」と知られ、6人の世界チャンピオンを育てたボクシングトレーナーです。私の最後の試合の時にセコンドを務めてくださったのもエディさんでしたし、引退してこの先どうなるかわからないという時も、一緒にいてくださいました。
−−赤井さんの知るエディさんはどんな方でしたか?

赤井さん:とにかく選手がナンバー・ワン。当時は指導者が竹刀で選手を叩くのが当たり前の時代でしたが、エディさんは決してそんなことをしませんでした。

いつも選手サイドでものを考えてくださるんです。私はアマチュア時代から「ガードが低い」とよく注意され、ガードが下がると「ガードを上げろ」と両腕を叩かれたりもしました。ところが、エディさんだけは叩かないのはもちろん、ほめてくれました。私の左手をピストルに例えて、「オッケー、オッケー。赤井の鉄砲の弾、ここから出るの。この状態から『手を上げろ!』と言うから相手は怖いね」と。

その後に、右手を指してこう教えてくださいました。「バット、ワンポイントアドバイス。相手が来た時は、『危ない、危ない、危ない』と避けなさい」。

選手の個性を大事にしてくれて、いいところを伸ばす。そうすれば、自然と悪いところは隠れるというお考えだったんです。ほめてくださることがありがたくて、エディさんの言葉は心に沁みました。
赤井英和さんとエディさん 映画『AKAI』より
©映画『AKAI』製作委員会
−−エディさんは赤井さんが俳優としてデビューする前年、1988年2月に亡くなりました。最後にお会いになった時に何かお話はされましたか。

赤井さん: 何度もお見舞いにうかがい、最後にお会いした時にはもう言葉が出ない状態でしたが、手を握ってくださいました。30年以上前ですが、今もその感触を覚えています。

エディさんには感謝しかありません。ボクサーとしてのプレイスタイルを作ってくださったのもそうですが、いただいた一番大きなものは愛情です。教わったことを後輩たちに受け継ぐのが、私にできるわずかばかりの恩返しだと思っています。

※赤井さんは母校・近畿大学ボクシング部の総監督を2012年から4年間務め、名誉監督を経て2019年に総監督に復帰した。

事務所社長の傘寿の記念に開いた生前葬

−−「教わったことを、受け継ぐ」。素敵ですね。

赤井さん:恩師はエディさんのほかにもいらっしゃいます。もうひとりだけお名前を挙げさせていただくなら、近畿大学ボクシング部の元監督・吉川昊允(よしかわこういん/故人)です。浪速高校2年の時に出場した国体の試合を見てくださっていて、私を近畿大学に誘ってくださった先生です。吉川先生の指導は厳しかったけれど、優しさがあり、いつも「赤井、赤井」と声をかけてくれました。

私はボクシング入学で近畿大学に入り、1980年のモスクワオリンピックの代表候補に選ばれましたが、日本代表が出場辞退を決め、プロに転向しました。プロになるなら大学は辞めなければと考え、吉川先生に退学届を持って行ったところ、先生は退学届を破り捨てました。

そして、「ご両親はお前をボクシングのためだけに大学に行かせたんじゃないだろう。大学で仲間を作って、勉強しなさい」とおっしゃったんです。大学は5年で無事卒業し、たくさん仲間ができました。吉川先生のおかげです。

役者になってからも、私はたくさんの先輩方に助けられてきました。まず思い浮かぶのは、30年間お世話になった芸能事務所プランニング・メイの鷲尾謹郎(きんろう)社長です。先輩方には亡くなった方もいらっしゃってさみしいですが、鷲尾社長は90歳を前に引退されたものの、お元気でいらしゃってありがたいです。80歳で一度お亡くなりになられましたけれども……。
−−80歳で一度お亡くなり……?

赤井さん:鷲尾社長の傘寿の記念に生前葬をやらせていただいたんです。

私は映画『どついたるねん』で役者としてデビューしましたが、演技のことは何も知らず、その後次から次へと仕事が来たわけではありません。何とかやっていけるようになったのは、鷲尾社長に出会ってからです。

当時、私は33歳。鷲尾社長は60歳。すでに芸能界で実績も残し、引退を考えていたころに私と出会い、新しい人生を始めるつもりでマネジメントを担当してくださったそうです。

そこから数十年、鷲尾社長といろいろなところへ行きました。日本全国津々浦々、アフリカにもアラスカにも行きました。いつも一緒にいて、いろいろなことを教わりました。その社長が80歳を迎えると知って感謝の気持ちを伝えたいと思い、社長のご家族や友人・知人、1000人ほどに来ていただいて大阪で生前葬をしたんです。

社長は東京の人ですが、大阪のレギュラー番組に出演する私と一緒に毎週新幹線に乗り、大阪にも社長の友人・知人がたくさんいます。もちろん大阪以外にもたくさんいるのですが、そういう方たちにもみんな来ていただいて、大阪でお礼が言いたいと思いました。

好きな言葉は「おおきにありがとう」と「先手必勝」

−−葬儀というと「終わり」のイメージが強く、「生前葬」には複雑な思いを抱く人も多いかもしれません。なぜ「記念パーティー」ではなく「生前葬」だったのでしょう?

赤井さん:もう1回生まれ変わって、もう1回、新しい人生を送っていただきたい。その気持ちだけでした。

私ひとりではどうすればいいのかわからないので、大阪の仲間に助けてもらおうと思って、半年ほど月2回、15人ほどが集まって会議をやりました。会議と言っても、まあ、焼肉屋さんでビール飲みながらやるんですが、回を重ねるうちに話が大きくなって。最終的には四国の阿波踊りや近畿大学応援団のエールあり、高校の後輩のお坊さんによるお経ありのものすごくにぎやかな生前葬になりました。

鷲尾社長も最初はびっくりされていましたが、ものすごく楽しんでくださって、最後は幽霊の三角巾をつけて感謝の言葉をおっしゃいました。みんな喜んで帰ってくださいましたし、社長も奥さまもご家族も喜んでくださって、あの日はものすごく楽しかったです。
−−ご自身の生前葬についてお考えになったことは?

赤井さん:私ですか? 考えたことがなかったです。

−−ご自身の最後については?

赤井さん:あの……。もちろん、いつか亡くなるのはわかっていますけれども、「今を精一杯生きる」というのが私のモットーと言いますか………。今も、どうお話しすれば皆さんに自分の思っていることを理解していただけるかな、とかそんなことに一生懸命なんです。だけど、それが大切だと思っています。
−−本日は本当にありがとうございました。
最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

赤井さん:「おおきに、ありがとう」という言葉が好きなんですけど、「先手必勝」という言葉も座右の銘にしています。ボクシングでは先手必勝をいつも心がけていましたが、リングを降りてもそうだと思っています。

勝敗のことを言いたいんじゃないんです。とにかく自分からアクションを起こせ。家族や友人に何か相談されたら、よくそう言います。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
30年ほど前、ドキュメンタリー番組の撮影でシルバーバックに会いにウガンダへ行ったんです。シルバーバックというのは、銀色に光る毛を背中に生やしたボスゴリラです。現地の方たちに案内していただいて、深い森の中を延々と歩きましてね。ようやく出会えたんですが、目を見てはいけないと言われていたので、最初はずっと知らんぷりをしていたんです。でも、うっかり見たらね。彼、すっかり安心して赤ちゃんゴリラを木の上であやしていました。あの優しいまなざしが忘れられません。もう一度、彼に会いに行きたいですね。

シルバーバック

プロフィール

俳優/赤井英和さん

【誕生日】1959年8月17日
【経歴】大阪市西成区出身。高校在学時にボクシングを始め、近畿大学進学後、プロに転向。12連続KO勝利の日本記録を樹立。1989年、映画『どついたるねん』の主役を務め、俳優デビュー。以後、ドラマ、舞台、ドキュメンタリー、バラエティなど幅広く活躍。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)