「結論は急がない方がトク!」山田邦子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第30回~

コラム
「結論は急がない方がトク!」山田邦子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第30回~
2020年にデビュー40周年を迎え、長年所属した事務所から独立するとともにYouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設。2022年10月には20年ぶりにミニアルバム「ザ・山田邦子カーニバル!」をリリースするなど新たなチャレンジを続ける山田邦子さん。後編では芸への思いや死生観に迫ります。

40歳から長唄を始め、19年で名取に

−−YouTube「山田邦子 クニチャンネル」は2020年以来約300本の動画をアップされていて、チャンネル登録者数は8万人を超えます。アントニーさんや鬼越トマホークさんなど若手芸人ともコラボされていますね。

山田さん:若い人に会うと刺激になりますね。YouTubeのスタッフも19歳や20歳でみんな若いんです。私も還暦を超え、若さや勢いというものにはちょっと嫉妬します。かみ合わないことも多いし、正直、「くそバカ」と思いますよ。でもね、うれしい。若い人たちの破茶滅茶なエネルギーに触れると、自分も頑張ろうという気になります。

最近は長年「やりたい」と思い続けていたことを少しずつ実現できていて、幸せだな、ありがたいなと感じています。2020年に『笑点』の演芸コーナーで漫談をやったり、浅草演芸ホールに出演したりしたのも感無量でした。

私は下町で生まれ育ち、子どものころから落語が好きで、学生時代は落語家になりたいと本気で考えたほど。演芸場には特別な思い入れがありました。でも、20歳でデビューしてすぐ売れ、自分は「ぽっと出」という引け目がありましたし、師匠もいないので、演芸場はずっと高嶺の花でした。だから、呼んでいただいてとても感謝しています。
−−「芸というものの根本をきちんと学びたい」という思いから、2000年から長唄の三味線を7年間習ったそうですね。

山田さん:邦楽の番組も担当しました。ありがたいことにたくさんの人間国宝の方々と共演させていただきました。次第に邦楽にのめり込み、2012年に縁あって長唄の杵屋勝之弥師匠に弟子入りし、本格的に長唄を学び2019年に「杵屋勝之邦」を襲名して名取になることができました。

40歳から19年。ようやく、です。「“芸人”と呼ばれるけれど、私に何の芸があるんだろう」と考えて長唄の唄と三味線のお稽古を始めましたが、なかなか上達しない。三味線は民族楽器で西洋音階のドレミファソラシドとは違って「ド」と「レ」の間に3つも4つも音があるんです。

加えて、長唄は三味線も基本的には歌舞伎の伴奏ですから、役者の当日のコンディションによってタテ(リーダー奏者)が判断してその場で調子を変えたりもします。割り切れないことがたくさんあって、私はモノマネが得意なのに、師匠のモノマネができない。いまだに下手で、唄うたび、弾くたびに挫折感を味わいます。
−−それでも長唄を続けようと思われますか?

山田さん:続けます。できないからこそ、「もっと上手くなりたい」と力が湧いてくるんです。「できた」と思ったら、やめちゃうでしょうね。

「芸能人大運動会」前日にかけた警察への電話

−−40歳の時に「私に何の芸があるんだろう」と考えたのは、きっかけがあったのでしょうか。

山田さん:デビュー当時からその思いはあって、「何かをきちんと習いたいな」とずっと思っていました。でも、20代、30代はできませんでした。時間を言い訳にしてはいけないですけど、死ぬほど働いて、お稽古どころか寝る時間さえありませんでしたから。

−−週に14本、隔週を入れると17本レギュラー番組を抱えている時期もあったそうですね。

山田さん:今でこそ「働き方改革」でテレビ業界も変わってきましたが、当時は無茶苦茶でした。夜中の30時に収録が終わり、次の収録が朝6時からという日もあって、空き時間がないことを「即死」と言っていました。よく生きていたな、と思います。

充実していましたし、スタジオでは元気いっぱいだったんですよ。でも、体は疲れ切っていて、そうすると、精神衛生上いいはずがないですよね。このまま死のうかな、と思ったことは何度もあります。
山田さん:本気で危なかったのは、20代後半だったかな。翌日に芸能人大運動会に出ることになっていたのですが、こう見えて私は集団が苦手。それでも、いつもなら与えられた役割をこなそうとするのですが、「この時はピン芸人の私がそこにいる意味があるのかな」と考え込んでしまったんです。そこで、事務所に相談してみたのですが、「とにかく行ってきなよ」と相手にされませんでした。

気落ちして「死にたい」という気持ちが膨らみ、なんとかしなければと考えたのですが、家族や友人に話したら、迷惑をかけてしまいます。ふと思いついて警察に「死にたいと思っています」と電話したところ、すごく親身になって話を聞いてくださって。このまま話を続けたら、「山田邦子」だとわかってしまうなと思ったら我に返って、「もう大丈夫です」と電話を切りました。

ところが、それほどまでに思い詰めたのに、次の日に運動会に行ったら、すごく楽しかったんですね。こんなことくらいで死ななくて良かった、と思いました。それ以来、「死にたい」と思ったことはありません。

この仕事をしていると、根も葉もないことを言われたり、きつい言葉を浴びせられることもあります。その瞬間はもちろん傷つきますし、腹が立ちます。でも、あの時に「早まらなくてよかった」という経験をしているから、「待てよ」と思うんです。

嫌なことを言われて相手の人格を疑いそうになっても、「もしかしたら、お腹が空いていて機嫌が悪かっただけかもしれない」と考えて、結論を急がなくなりました。すると、早とちりで「苦手だな」と思った人と時間を経て仲良くなったり、助けてもらったり、トクをしたことがいっぱいあります。

生かされているうちは、楽しく生きよう

−−人生100年時代。この先をどう生きようとお思いになっていますか?

山田さん:先日も6代目三遊亭圓楽さん(2022年9月30日逝去)が亡くなりましたが、これまでには、お世話になった方々をたくさん見送りました。さまざまな別れがありながら、自分はまだ生かされている。ありがたいな、としみじみ思います。だから、生かされているうちは、楽しく生きよう−−−−それしか考えていないですね。

島倉千代子さんの「人生いろいろ」じゃないですけど、人生、山あり谷ありです。でも、今は人生が楽しくなっちゃってね。やっぱり、私は仕事が好きなんです。

芸能界の仕事はプレッシャーも大きいし、ライバルもたくさんいて、頑張っても報われない時もある。苦しいし、つらいです。でも、ちょっとだけ楽しい。大袈裟な言い方ですが、いつも「生きる」と「死ぬ」の瀬戸際にいて、それでも、「明日はちょっとだけ楽しそうだな」と思って今日も生きる。そんな調子で図々しくここまでやってこられた今、私はやっぱりいい家族、いい仲間に支えられているなと思います。
−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

山田さん:「無限の可能性」という言葉を贈ります。母校の川村学園は幼稚園から短大(現在は4年制大学)まである一貫校ですが、中学時代の私は5代目三遊亭円楽師匠が大好きで、卒業後は圓楽師匠に弟子入りし、落語家になりたいと考えていました。だから、担任の先生に「高校は行きません」と言ったんです。

すると、先生は「今は落語家になることしか考えられないかもしれないけれど、あなたはお裁縫が得意だから、洋服のデザインで成功するかもしれないし、いいお母さんになるかもしれない。人は誰しも無限の可能性を持っているのだから、もうちょっと研究しなさい」とおっしゃいました。「無限の可能性」という言葉に力を与えてもらったようで印象的で、それからずっとこの言葉を大切にしています。
山田さん:先日、大きな同窓会があって90歳を超えた先輩と友だちになったのですが、「現役で美容師をやっているのよ」と話していました。感覚も若々しくて、刺激を受けました。私も負けてはいられません。まだまだいきますよ。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
2014年に旅行したキューバにもう一度行ってみたいんです。カリブ海クルーズを体験し、もう最高でした。海が青くて綺麗でね。首都・ハバナ郊外の葉巻工場の見学にも行きました。小さな町工場のようなところで、スタッフが手作りで葉巻を作っているんですけど、冗談を言って笑ったり、私たちにも話しかけたりして、空気がとてものどかなんですよ。素敵だな、と思いました。

モヒート

銀座300BARのモヒート
太陽の下で飲んだモヒートの味も、山田さんのキューバ旅行の楽しい思い出のひとつ。モヒートはミントを利かせたラムベースのカクテルで、本場ではスペアミントとアップルミントの配合種「イエルバ・ブエナ」がよく使われている。

日本で本格的なモヒートが飲める「銀座300BAR」

世界で初めてキューバ大使館の認定を受けたモヒートを提供。銀座に2店舗、有楽町に1店舗で本場のモヒートが楽しめる。
https://www.300bar.com/mojito

プロフィール

タレント/山田邦子さん

【誕生日】1960年6月13日
【経歴】東京都出身。1980年に芸能活動開始。『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などで人気に。近年は舞台で活躍するほか、2020年にYouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設。若手芸人とのコラボや最新の芸能ニュースへのコメントが注目されている。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)