「紙袋いっぱいの“祖父の孤独”」落語家 柳家花緑さん【インタビュー前編】~日々摘花 第23回~
コラム
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
第23回のゲストは、落語家の柳家花緑さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
第23回のゲストは、落語家の柳家花緑さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
スピード感あふれる歯切れのいい語り口が人気で、落語の公演で全国を飛び回りつつテレビや舞台でも活躍している花緑さん。落語界初の人間国宝・五代目柳家小さんの孫で、最後の内弟子でもあります。前編ではおじい様との別れと、花緑さんだけに見せた晩年の五代目小さん師匠の姿についてお話しいただきました。
祖父で師、柳家小さんの亡くなった日も明治座の舞台へ
ーーおじい様が他界された当時(2002年5月16日)、花緑さんは30歳。若手落語家として注目される一方で、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたり、ピアノ弾き語りによる落語CDを出されるなど活躍の幅を広げたころでしたね。
花緑さん: 祖父が亡くなったのは、僕が明治座の舞台「居残り佐平次」に役者として1カ月間出演していた時期でした。当日は11時から昼の部の公演があり、早朝、母からかかってきた電話で祖父のことを聞きました。
祖父は80歳の時に脳梗塞で倒れましたが、数カ月で復帰。87歳で亡くなる3カ月前に体調を崩し、高座に上れなくなってからも家では普通に生活をしていました。前の晩に食事をして自室に入り、朝になっても起きてこないので、母が様子を見に行ったら、すでに息を引き取っていたそうです。
母は最初、祖父が寝ているのか亡くなったのか判断がつかず、僕への電話で「お父様が亡くなったと思う」と言いました。おかしな表現だなと思いましたが、考えてみれば、無理もないですよね。現代の生活で、人の死に直面する機会なんてそうそうありませんから。
母からの電話の後、僕は明治座に向かいました。祖父のことは誰にも話さず楽屋に入りましたが、テレビのニュースで訃報が流れましてね。それを見た俳優の渡辺哲さんが僕の楽屋に駆け込み、「じいさんが亡くなったんだってなぁ…。大丈夫か?」と気遣ってくださったことが忘れられません。
当時明治座の代表取締役会長だった三田政吉さん(故人)も楽屋にいらっしゃって「花緑さん、申し訳ないですね。つらいでしょうけど、務めてください」とおっしゃいました。「もちろん、務めさせていただきます。しっかり演らなければ、祖父に叱られます」とお返事しました。
明治座の公演は5月27日が千秋楽でしたから、僕は祖父のお通夜にも告別式にも出られませんでした。でも、あの時期に役者として毎日舞台に立たせていただいたのは、僕にとって救いでした。役者は与えられた役になり切るのが仕事。自分を出すことがないので、務めることができました。通常のペースで高座に上がっている時期であれば、お客さんの前で祖父の話をしない訳にはいかなかったでしょうから、泣くのをこらえるのに苦労したと思います。
花緑さん: 祖父が亡くなったのは、僕が明治座の舞台「居残り佐平次」に役者として1カ月間出演していた時期でした。当日は11時から昼の部の公演があり、早朝、母からかかってきた電話で祖父のことを聞きました。
祖父は80歳の時に脳梗塞で倒れましたが、数カ月で復帰。87歳で亡くなる3カ月前に体調を崩し、高座に上れなくなってからも家では普通に生活をしていました。前の晩に食事をして自室に入り、朝になっても起きてこないので、母が様子を見に行ったら、すでに息を引き取っていたそうです。
母は最初、祖父が寝ているのか亡くなったのか判断がつかず、僕への電話で「お父様が亡くなったと思う」と言いました。おかしな表現だなと思いましたが、考えてみれば、無理もないですよね。現代の生活で、人の死に直面する機会なんてそうそうありませんから。
母からの電話の後、僕は明治座に向かいました。祖父のことは誰にも話さず楽屋に入りましたが、テレビのニュースで訃報が流れましてね。それを見た俳優の渡辺哲さんが僕の楽屋に駆け込み、「じいさんが亡くなったんだってなぁ…。大丈夫か?」と気遣ってくださったことが忘れられません。
当時明治座の代表取締役会長だった三田政吉さん(故人)も楽屋にいらっしゃって「花緑さん、申し訳ないですね。つらいでしょうけど、務めてください」とおっしゃいました。「もちろん、務めさせていただきます。しっかり演らなければ、祖父に叱られます」とお返事しました。
明治座の公演は5月27日が千秋楽でしたから、僕は祖父のお通夜にも告別式にも出られませんでした。でも、あの時期に役者として毎日舞台に立たせていただいたのは、僕にとって救いでした。役者は与えられた役になり切るのが仕事。自分を出すことがないので、務めることができました。通常のペースで高座に上がっている時期であれば、お客さんの前で祖父の話をしない訳にはいかなかったでしょうから、泣くのをこらえるのに苦労したと思います。
「九ちゃん」に戻った、祖父との最後の7年
ーー亡くなったおじい様と対面されたのは?
花緑さん:当日、明治座の舞台が終わった後、急いで実家へ向かいました。6歳から祖父、母、兄、僕の4人で暮らした東京・目白の家です。ものすごい数の報道陣が家の前を埋め尽くし、タクシーを降りるや否や囲み取材を受けましたが、何を話したのか覚えていません。
ようやく対面した祖父の顔はまさに眠っているようでした。亡くなったという実感がなく、不思議な感覚だったのですが、数日後のこと。骨上げ(火葬後に遺骨を骨壺に納める儀式)だけは何とか間に合い、すべての儀式が終わった晩、母のことが心配で実家に泊まることにしたんですね。
実家に僕の部屋はすでになく、母が「ここで寝たらいいじゃない」とドアを開けたのは、祖父の部屋。祖父の生前なら、僕がそこに寝るなんてあり得ないことです。一瞬ためらいましたが、「そうか。亡くなったんだ」と思い直し、初めて祖父のベッドで寝かせてもらうことに。暗闇の中、ベッドの脇に置かれたランプをつけた時、光に照らされて一枚の写真が浮かび上がりました。僕が9歳で初めて高座に上がった時の写真でした。
その瞬間、涙が止まらなくなりました。写真をそこに置いたのは母だと思いますが、9歳の僕の写真を祖父が毎日この目線で見て、亡くなる時も見ていたかもしれない。そう想像したら、もうたまらなくて。後にも先にもあれほど泣いたことはありません。
花緑さん:当日、明治座の舞台が終わった後、急いで実家へ向かいました。6歳から祖父、母、兄、僕の4人で暮らした東京・目白の家です。ものすごい数の報道陣が家の前を埋め尽くし、タクシーを降りるや否や囲み取材を受けましたが、何を話したのか覚えていません。
ようやく対面した祖父の顔はまさに眠っているようでした。亡くなったという実感がなく、不思議な感覚だったのですが、数日後のこと。骨上げ(火葬後に遺骨を骨壺に納める儀式)だけは何とか間に合い、すべての儀式が終わった晩、母のことが心配で実家に泊まることにしたんですね。
実家に僕の部屋はすでになく、母が「ここで寝たらいいじゃない」とドアを開けたのは、祖父の部屋。祖父の生前なら、僕がそこに寝るなんてあり得ないことです。一瞬ためらいましたが、「そうか。亡くなったんだ」と思い直し、初めて祖父のベッドで寝かせてもらうことに。暗闇の中、ベッドの脇に置かれたランプをつけた時、光に照らされて一枚の写真が浮かび上がりました。僕が9歳で初めて高座に上がった時の写真でした。
その瞬間、涙が止まらなくなりました。写真をそこに置いたのは母だと思いますが、9歳の僕の写真を祖父が毎日この目線で見て、亡くなる時も見ていたかもしれない。そう想像したら、もうたまらなくて。後にも先にもあれほど泣いたことはありません。
ーー花緑さんは中学卒業と同時におじい様に弟子入りされました。過去のインタビューでは五代目柳家小さん師匠のことを「師匠であり、祖父であり、父代りでもあった」と語っていらっしゃいますね。
花緑さん: 五代目柳家小さんには40人の内弟子がいて、僕は最後の内弟子。幼いころから自宅に常に落語関係の人たちが出入りする環境で暮らしました。落語界は世襲制ではありませんから、今思えば、あの環境は落語界の中でも特殊だったかもしれません。
祖父は家では僕のことを本名の「九(きゅう)」と呼びましたが、僕が弟子入りしてからは暗黙のルールがあり、第三者がいる時には家の中でも「九」という名を口にしませんでした。もちろん僕も「師匠」と呼んでいましたし、真打ち昇進の翌年、23歳でひとり暮らしを始めてからはプライベートよりも落語関係の場で祖父に会う機会の方が増えましたから、僕としては歳を重ねるにつれて祖父を「師匠」として意識することの方が多くなっていきました。
一方、脳梗塞で倒れてから亡くなるまでの7年間、祖父は僕のことを常に「九ちゃん」と呼びました。しっくりとこない感じがありましたが、祖父にとって孫は兄と僕だけ。当時兄はバレエダンサーとして外国で暮らしていましたから、僕は唯一の孫です。「九ちゃん」という呼び名には、僕に「孫」でいてほしいという祖父のメッセージが込められていたように思います。
花緑さん: 五代目柳家小さんには40人の内弟子がいて、僕は最後の内弟子。幼いころから自宅に常に落語関係の人たちが出入りする環境で暮らしました。落語界は世襲制ではありませんから、今思えば、あの環境は落語界の中でも特殊だったかもしれません。
祖父は家では僕のことを本名の「九(きゅう)」と呼びましたが、僕が弟子入りしてからは暗黙のルールがあり、第三者がいる時には家の中でも「九」という名を口にしませんでした。もちろん僕も「師匠」と呼んでいましたし、真打ち昇進の翌年、23歳でひとり暮らしを始めてからはプライベートよりも落語関係の場で祖父に会う機会の方が増えましたから、僕としては歳を重ねるにつれて祖父を「師匠」として意識することの方が多くなっていきました。
一方、脳梗塞で倒れてから亡くなるまでの7年間、祖父は僕のことを常に「九ちゃん」と呼びました。しっくりとこない感じがありましたが、祖父にとって孫は兄と僕だけ。当時兄はバレエダンサーとして外国で暮らしていましたから、僕は唯一の孫です。「九ちゃん」という呼び名には、僕に「孫」でいてほしいという祖父のメッセージが込められていたように思います。
たった一度だけ僕に見せた、師匠らしくない姿
ーーおじい様は脳梗塞で倒れた後、右半身に麻痺が残っていたそうですね。
花緑さん:本人はおくびにも出しませんでしたが、リハビリは簡単ではなかったはずです。その時に師匠を支えたのは、趣味の剣道でした。師匠は剣道が大好きで、自宅に38畳の道場を設けていたほど。脳梗塞を患った時点で剣道藩士の称号を持ち、段位は七段でした。そこで師匠は「藩士八段」を取ることを目標に掲げてリハビリに励み、数ヶ月で高座への復帰を遂げる回復ぶりを見せたんです。
ところが、その矢先、師匠は剣道仲間との会話で衝撃の事実を聞かされます。剣道の称号と段位は別々のもので、藩士を取った段階で段位が確定し、どんなに頑張っても「藩士八段」にはなれないということがわかったんです。
その事実を初めて知った師匠は一瞬、目標を見失いました。師匠は自分の都合で弟子を振り回すようなことをしない人でしたが、よほど落ち込んでいたのでしょう。一度だけ、師匠らしくない姿を僕に見せたことがあります。
当時、僕は月に一度ほど師匠と食事をしていました。自宅で一緒に食べることもありましたが、その日はたまには母にゆっくりしてもらおうと、ふたりで外食することになったんですね。師匠との外食は、目白の実家からタクシーで上野に向かい、着いた時の気分で食べたいものを決めて食事だけをして帰るというのがお決まりのコースでした。
花緑さん:本人はおくびにも出しませんでしたが、リハビリは簡単ではなかったはずです。その時に師匠を支えたのは、趣味の剣道でした。師匠は剣道が大好きで、自宅に38畳の道場を設けていたほど。脳梗塞を患った時点で剣道藩士の称号を持ち、段位は七段でした。そこで師匠は「藩士八段」を取ることを目標に掲げてリハビリに励み、数ヶ月で高座への復帰を遂げる回復ぶりを見せたんです。
ところが、その矢先、師匠は剣道仲間との会話で衝撃の事実を聞かされます。剣道の称号と段位は別々のもので、藩士を取った段階で段位が確定し、どんなに頑張っても「藩士八段」にはなれないということがわかったんです。
その事実を初めて知った師匠は一瞬、目標を見失いました。師匠は自分の都合で弟子を振り回すようなことをしない人でしたが、よほど落ち込んでいたのでしょう。一度だけ、師匠らしくない姿を僕に見せたことがあります。
当時、僕は月に一度ほど師匠と食事をしていました。自宅で一緒に食べることもありましたが、その日はたまには母にゆっくりしてもらおうと、ふたりで外食することになったんですね。師匠との外食は、目白の実家からタクシーで上野に向かい、着いた時の気分で食べたいものを決めて食事だけをして帰るというのがお決まりのコースでした。
花緑さん:ところが、その日はいつもより早い時間に師匠が「出かけよう」と言い、上野に着くなり映画館へ。映画の途中で「出よう」と言って今度は美術館に向かい、食事もお蕎麦屋さんに入ったかと思えばおでん屋さんに入り、その次はお寿司屋さんといった調子であっちへふらり、こっちへふらり。様子がおかしいなと感じながらも、何も言わず一緒にいたのですが、帰りのタクシーの中で師匠がポツリと「今日は悪かったな」と言ったんです。以来、同じようなことは二度とありませんでした。
その日から5、6年の月日が流れ、師匠が亡くなる半年ほど前だったでしょうか。実家の道場の片隅に大きな紙袋がふたつ置かれているのを見つけ、中をのぞいた瞬間が今も心に焼きついています。紙袋に入っていたのは、あふれんばかりの量の文庫本でした。
師匠はもともと読書家でしたが、脳梗塞で倒れて仕事を減らしてからは、空いた時間にひとりで本を読むことが多かったようです。40人もの弟子がいた人です。その時間に弟子をつき合わせることもできたでしょう。でも、師匠は誰にも依存せず、孫の僕にも頼らず、自分の部屋でひとり本を読み続けました。
あの文庫本の山を見た時、僕は師匠の過ごした膨大な孤独の時間をそこに見たような気がしました。申し訳なさと切なさで胸がいっぱいになるとともに、師匠の強さ、優しさを感じ、涙を流さずにはいられませんでした。
その日から5、6年の月日が流れ、師匠が亡くなる半年ほど前だったでしょうか。実家の道場の片隅に大きな紙袋がふたつ置かれているのを見つけ、中をのぞいた瞬間が今も心に焼きついています。紙袋に入っていたのは、あふれんばかりの量の文庫本でした。
師匠はもともと読書家でしたが、脳梗塞で倒れて仕事を減らしてからは、空いた時間にひとりで本を読むことが多かったようです。40人もの弟子がいた人です。その時間に弟子をつき合わせることもできたでしょう。でも、師匠は誰にも依存せず、孫の僕にも頼らず、自分の部屋でひとり本を読み続けました。
あの文庫本の山を見た時、僕は師匠の過ごした膨大な孤独の時間をそこに見たような気がしました。申し訳なさと切なさで胸がいっぱいになるとともに、師匠の強さ、優しさを感じ、涙を流さずにはいられませんでした。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
その日に「食べたい」と思ったものが食べられたら、それで幸せです。ただ、人生のさまざまな出会いと同じで食事もめぐり合わせ。「お寿司を食べたいね」と言って思い通りに食べられて、見事その晩に亡くなったりしたら理想的ですが、そううまくことが運ぶとは限りません。諸事情でお味噌汁とごはんになって、「お寿司は明日にしよう」と家族と話していたらポックリということもあるでしょう。でも、それも運命と僕は思います。
落語とそばの会
「時蕎麦(ときそば)」「素人鰻(しろうとうなぎ)」「目黒の秋刀魚(めぐろのさんま)」など落語には食を題材とする演目が多い。中でも蕎麦はよく登場し、落語会を開催する蕎麦店も少なくない。花緑さんが9歳の時に初めて高座に上がったのも、東京・日本橋の蕎麦店「薮伊豆総本店」。1999年からは同店で「落語とそばの会 柳家花緑独演会」を定期開催しており、2022年5月には152回を迎えた。
■薮伊豆総本店ホームページ
https://www.yabuizu-souhonten.com
https://www.yabuizu-souhonten.com
プロフィール
落語家/柳家花緑さん
【誕生日】1971年8月2日
【経歴】東京都出身。87年、祖父で人間国宝の五代目柳家小さんに入門。94年、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進し、初代柳家花緑となる。古典・新作落語のほか洋装&椅子を用いた“同時代落語”にも取り組む。舞台、テレビなどでナビゲーターや俳優としても活躍している。
【誕生日】1971年8月2日
【経歴】東京都出身。87年、祖父で人間国宝の五代目柳家小さんに入門。94年、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進し、初代柳家花緑となる。古典・新作落語のほか洋装&椅子を用いた“同時代落語”にも取り組む。舞台、テレビなどでナビゲーターや俳優としても活躍している。
(取材・文/泉 彩子 写真/鈴木 慶子)