「母を亡くし、それまでとは違う父を見た」演出家 宮本亞門さん 【インタビュー前編】~日々摘花 第8回~
コラム
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
第8回のゲストは、演出家の宮本亞門さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
第8回のゲストは、演出家の宮本亞門さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
2019年には前立腺がんの手術を受け、2020年にはコロナ禍により、準備をしてきた舞台が次々とキャンセルに。試練に直面しながらも、緊急事態宣言下、多くの人に歌で希望を感じてもらいたいと『上を向いて歩こう』を歌や踊りで紡いでいくプロジェクトを立ち上げるなど常に行動をしてきた宮本さん。前編では21歳で経験したお母様との別れと、その別れをきっかけに深めてきたお父様との関係についてうかがいました。
白くなっていく母に静かにキスをした父は、美しかった
ーーこれまでで最も印象深い「永遠の別れ」について教えていただけますか?
宮本さん:僕も還暦を超え、大切な人たちを少なからず見送りましたが、一番印象深いのはやはり、21歳で経験した母との別れです。当時の僕は、「いつかは演出家に」という思いを抱きつつ役者として勉強していた時期。母が亡くなったのは、現在のPARCO劇場で俳優として出演した舞台『ヘアー』の初日でした。最終稽古の後、明け方に下宿に戻ったら、脳溢血で意識を失った母が浴室でびしょ濡れになって倒れていたんです。慌てて救急車を呼び、家族に電話しました。父はそのころ酒癖が悪くて、その時も酔っ払っていたのですが、「お母さんが倒れたんだよ」と伝えたとたん、「すぐ行く」と声が一変したのを覚えています。
病院に着いた時はまだ息があり、医師が母の上に乗っかって心臓マッサージをしてくれましたが、母の体は加えられた力に反応して上下するばかり。懸命に頑張ってくれた先生には申し訳ないのですが、母がただの物体になってしまったことを見せつけられているように感じられて、見るに堪えませんでした。
本音を言えば、目をふさいでしまいたかった。そうしなかったのは、母の教えがあったからです。母はSKD(松竹歌劇団)出身で舞台をこよなく愛した人。僕に「演出家として人間を描くのなら、目の前で起きていることのすべてを見なさい。絶対に目を背けてはいけない」と常々言っていました。だから、すべてを見ようと思ったんです。
母が息を引き取った直後の父の姿も、心に焼きついています。乱れた母の髪をきれいに指で梳かし、そっと唇にキスをしたんです。驚きのあまり、壁にもたれかかってふたりの様子に見入ってしまいました。
ーー何に驚かれたんですか?
宮本さん:父は12歳年上の母にひと目惚れし、親の反対を押し切って結婚しましたが、僕が物心ついたころにはケンカばかりしていました。ふだんの父は穏やかなのですが、お酒が入ると暴力を振るうこともあり、母は何度も「別れたい」と言っていて、なぜ別れないのか不思議でたまらなかったくらいなんです。
でも、父のキスを見た時に初めてわかりました。家庭を持ち、必死で生きていく過程で、父と母にはいろんなことがあり、おたがいに傷つけ合いもしたけれど、ふたりは本当に愛し合っていたんだ、と。それほどまでに、あの時の父は美しかったんです。動かない、ただ白くなっていく母に静かにキスをした父は本当に美しかった。僕はすごく母と仲が良かったし、大好きだったから、父にはずっとわだかまりがありましたが、あの時に父を100パーセント認めました。
宮本さん:僕も還暦を超え、大切な人たちを少なからず見送りましたが、一番印象深いのはやはり、21歳で経験した母との別れです。当時の僕は、「いつかは演出家に」という思いを抱きつつ役者として勉強していた時期。母が亡くなったのは、現在のPARCO劇場で俳優として出演した舞台『ヘアー』の初日でした。最終稽古の後、明け方に下宿に戻ったら、脳溢血で意識を失った母が浴室でびしょ濡れになって倒れていたんです。慌てて救急車を呼び、家族に電話しました。父はそのころ酒癖が悪くて、その時も酔っ払っていたのですが、「お母さんが倒れたんだよ」と伝えたとたん、「すぐ行く」と声が一変したのを覚えています。
病院に着いた時はまだ息があり、医師が母の上に乗っかって心臓マッサージをしてくれましたが、母の体は加えられた力に反応して上下するばかり。懸命に頑張ってくれた先生には申し訳ないのですが、母がただの物体になってしまったことを見せつけられているように感じられて、見るに堪えませんでした。
本音を言えば、目をふさいでしまいたかった。そうしなかったのは、母の教えがあったからです。母はSKD(松竹歌劇団)出身で舞台をこよなく愛した人。僕に「演出家として人間を描くのなら、目の前で起きていることのすべてを見なさい。絶対に目を背けてはいけない」と常々言っていました。だから、すべてを見ようと思ったんです。
母が息を引き取った直後の父の姿も、心に焼きついています。乱れた母の髪をきれいに指で梳かし、そっと唇にキスをしたんです。驚きのあまり、壁にもたれかかってふたりの様子に見入ってしまいました。
ーー何に驚かれたんですか?
宮本さん:父は12歳年上の母にひと目惚れし、親の反対を押し切って結婚しましたが、僕が物心ついたころにはケンカばかりしていました。ふだんの父は穏やかなのですが、お酒が入ると暴力を振るうこともあり、母は何度も「別れたい」と言っていて、なぜ別れないのか不思議でたまらなかったくらいなんです。
でも、父のキスを見た時に初めてわかりました。家庭を持ち、必死で生きていく過程で、父と母にはいろんなことがあり、おたがいに傷つけ合いもしたけれど、ふたりは本当に愛し合っていたんだ、と。それほどまでに、あの時の父は美しかったんです。動かない、ただ白くなっていく母に静かにキスをした父は本当に美しかった。僕はすごく母と仲が良かったし、大好きだったから、父にはずっとわだかまりがありましたが、あの時に父を100パーセント認めました。
母の死を境に、父と子の関係が逆転していった
ーーその後もお父様には驚かされることもたくさんあったそうですね。お母様が宮本さんのために遺された貯金を使ってしまったり、突然25歳下の女性と再婚されたり……。
宮本さん:今は今で認知症が少し進んで、テレビショッピングで次から次へと買い物をしちゃうしね(笑)。正直なところ、果たしてこの父と生きるべきなのかと何度思ったかわかりません。でも、やっぱり、彼は僕を生んでくれた人。愛おしい人なんです。
母を亡くした時、つらかったけれど、幸い僕には舞台がありました。悲しみから立ち上がろうとニューヨークに行き、20代後半には演出の仕事もできるようになって、舞台を愛した母から、巨大なバトンを受け継ぐことができた。一方、父はどん底まで落ち込み、そこにいたのはそれまでとはまったく違う父でした。
母が生きていたころの父は、どちらかというと強気な人だったんですよ。今思えば、虚勢を張っていたんでしょうね。母との結婚に反対されて祖父の会社を辞め、夫婦で喫茶店を始めたのはいいけれど、お坊ちゃん育ちでお客さんに「ありがとうございます」も言えず、親戚の冷たい仕打ちから母を守ることもできない。内心では、自信がなかったんだと思います。
ところが、母が亡くなると、自信のなさが全部正直に出て、すっかり気力をなくしてしまった。威張ることもなくなった父の背中を見てしまったら、今度は愛おしくなっちゃって……。そこから、父と子の関係が逆転していったような気がします。今や僕にとって父は「守るべき存在」。どんどん父が可愛く、愛おしくなってきて、継母からの父の愚痴に「うん、うん」とうなずきながらも、「でも、可愛いでしょう?」と一生懸命弁護したりしています。
宮本さん:今は今で認知症が少し進んで、テレビショッピングで次から次へと買い物をしちゃうしね(笑)。正直なところ、果たしてこの父と生きるべきなのかと何度思ったかわかりません。でも、やっぱり、彼は僕を生んでくれた人。愛おしい人なんです。
母を亡くした時、つらかったけれど、幸い僕には舞台がありました。悲しみから立ち上がろうとニューヨークに行き、20代後半には演出の仕事もできるようになって、舞台を愛した母から、巨大なバトンを受け継ぐことができた。一方、父はどん底まで落ち込み、そこにいたのはそれまでとはまったく違う父でした。
母が生きていたころの父は、どちらかというと強気な人だったんですよ。今思えば、虚勢を張っていたんでしょうね。母との結婚に反対されて祖父の会社を辞め、夫婦で喫茶店を始めたのはいいけれど、お坊ちゃん育ちでお客さんに「ありがとうございます」も言えず、親戚の冷たい仕打ちから母を守ることもできない。内心では、自信がなかったんだと思います。
ところが、母が亡くなると、自信のなさが全部正直に出て、すっかり気力をなくしてしまった。威張ることもなくなった父の背中を見てしまったら、今度は愛おしくなっちゃって……。そこから、父と子の関係が逆転していったような気がします。今や僕にとって父は「守るべき存在」。どんどん父が可愛く、愛おしくなってきて、継母からの父の愚痴に「うん、うん」とうなずきながらも、「でも、可愛いでしょう?」と一生懸命弁護したりしています。
ギリギリまで生きてこそ、遺していく人たちにバトンを渡せる
ーーお父様は現在、94歳だそうですね。
宮本さん:歳を取ると、誰しもどこかが動かなくなってきますよね。人の手を借りないとできないことも増えてくる。父は口にはしませんが、「人には迷惑をかけたくない」という思いが強い人です。できないことが増えてくると「生きていていいんだろうか」と感情が揺れ動き、身体だけでなく、心もつらそうです。
それでも、父は生きようとしています。あれだけ自分に自信のなかった男が、人を非難することもなく、「生きるぞ、生きるぞ」と言ってリハビリを頑張っている。その姿を見て、生きるって壮絶なことなんだと圧倒され、あきらめないことの素晴らしさを教わっています。
母も同じでした。僕を出産する時に受けた輸血で肝炎になり、何度も死の宣告を受けましたが、弱音はほとんど吐かず、外で暗い顔は決して見せませんでした。「絶対に死なない。1秒でも長く生きる」と自分に言い聞かせ、笑顔で仕事をしていました。常に死を意識していたからこそ、母は生きていることに感謝し、人一倍頑張っていたんですね。
苦しくても生きている姿は、周りに勇気を与えます。やはり、生きることをあきらめてはダメなんですよ。ギリギリまで生きてこそ、遺していく人たちにバトンを渡せる。母がそうしてくれたように、父にもそうあってほしい。そして、できるかどうか自信はないけれど、僕もそうなれたらと思っています。
宮本さん:歳を取ると、誰しもどこかが動かなくなってきますよね。人の手を借りないとできないことも増えてくる。父は口にはしませんが、「人には迷惑をかけたくない」という思いが強い人です。できないことが増えてくると「生きていていいんだろうか」と感情が揺れ動き、身体だけでなく、心もつらそうです。
それでも、父は生きようとしています。あれだけ自分に自信のなかった男が、人を非難することもなく、「生きるぞ、生きるぞ」と言ってリハビリを頑張っている。その姿を見て、生きるって壮絶なことなんだと圧倒され、あきらめないことの素晴らしさを教わっています。
母も同じでした。僕を出産する時に受けた輸血で肝炎になり、何度も死の宣告を受けましたが、弱音はほとんど吐かず、外で暗い顔は決して見せませんでした。「絶対に死なない。1秒でも長く生きる」と自分に言い聞かせ、笑顔で仕事をしていました。常に死を意識していたからこそ、母は生きていることに感謝し、人一倍頑張っていたんですね。
苦しくても生きている姿は、周りに勇気を与えます。やはり、生きることをあきらめてはダメなんですよ。ギリギリまで生きてこそ、遺していく人たちにバトンを渡せる。母がそうしてくれたように、父にもそうあってほしい。そして、できるかどうか自信はないけれど、僕もそうなれたらと思っています。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
昔は「オムライス」と答えていましたが、今は「海鮮丼」かな。先日、仕事で新潟県に行く機会があり、フラリと入ったお店で食べた海鮮丼がおいしくて! ハマってしまい、最近よく家で作るのは、スーパーで買った海鮮丼に、同じくスーパーの刺身盛り合わせをのせた「亞門流贅沢海鮮丼」。幸せをかみしめながら、食べています。根が単純だから、今食べて幸せを感じると、「死ぬ時もこれを食べたい」と思っちゃうんですよ(笑)。
海鮮丼
※写真はイメージです。
スーパーの刺身を美味しくするコツ
スーパーで買った刺身をよりおいしく食べるには、冷塩水に漬けるのがおすすめ。ボウルに張った水に塩を溶かし、氷を入れた冷塩水に刺身を10分ほど漬け、キッチンペーパーでしっかり水気を取ります。余分な水分が抜けてまろやかに。
プロフィール
演出家・宮本亞門さん
【誕生日】1958年1月4日
【経歴】1987年、ミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家としてデビュー。2004年、東洋人初の演出家としてオン・ブロードウェイにて『太平洋序曲』を上演、同作はトニー賞4部門でのノミネートを果たす。 ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎などジャンルを越える演出家として、国内外で活躍。
【ペット】愛犬のビート(2代目)は沖縄県動物愛護管理センターから引き取った保護犬。初代ビートは監督作『BEAT』の撮影中、沖縄のロケ地に捨てられているところを拾って育てた。
【誕生日】1958年1月4日
【経歴】1987年、ミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家としてデビュー。2004年、東洋人初の演出家としてオン・ブロードウェイにて『太平洋序曲』を上演、同作はトニー賞4部門でのノミネートを果たす。 ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎などジャンルを越える演出家として、国内外で活躍。
【ペット】愛犬のビート(2代目)は沖縄県動物愛護管理センターから引き取った保護犬。初代ビートは監督作『BEAT』の撮影中、沖縄のロケ地に捨てられているところを拾って育てた。
Information
新型コロナウイルス感染症の拡大で先行き不透明な状況が続く中、「自分にできることがあるなら」と7年ぶりに筆を執った『上を向いて生きる』(幻冬舎)。10代での自殺未遂や引きこもり生活、父との関係、2019年の前立腺がん手術など自身の経験をオープンにしながら、つらさを超えて生きていくことの意味、生きることの喜びを生の言葉で語っている。
(取材・文/泉 彩子 写真/鈴木 慶子)