「葬儀には、故人の人柄が表れる」  リポーター・ラジオパーソナリティー 東海林のり子さん 【インタビュー前編】~日々摘花 第7回~

コラム
「葬儀には、故人の人柄が表れる」  リポーター・ラジオパーソナリティー 東海林のり子さん 【インタビュー前編】~日々摘花 第7回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第7回のゲストは、リポーター/ラジオパーソナリティーの東海林のり子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
ワイドショーの事件リポーターとして活躍し、86歳の現在もパーソナリティーとしてラジオのレギュラー番組を持つ東海林さん。前編では、「死」を目の当たりにするような事件や災害の取材への思いや、数々の芸能人の葬儀を通してお感じになったことをうかがいます。

多くの事件を取材しても、「死」に慣れることはなかった

ーー「グリコ・森永事件(1984年〜1985年)」、「東京・埼玉連続幼女誘拐事件(1988年〜1989年)など昭和から平成にかけて起きた事件を思い起こすと、それらの事件を現場から報道されていた東海林さんのお顔がセットで思い浮かびます。当時、東海林さんは50代でしょうか。

東海林さん: 40代後半から本格的に事件の取材を始めて、50代はすごく忙しかったですね。寝る間も惜しんで仕事をしました。60歳で事件の現場を退いた後もこうして仕事を続けられているのは、事件リポーターとして必死で取材をしたあのころが土台になっているからだと思っています。

ーー取材された事件は3,000件を超え、取材内容を記録したノートは68冊にのぼるとか。事件の現場は目を背けたくなるようなことも多く、大変だったでしょうね。

東海林さん:それが、当時はそうでもなかったんですよ。「もっと知りたい」「もっと見たい」という気持ちが強かったから。「明日はこれを取材しなきゃ」と考えるのに忙しく、イヤなことを感じる暇がなかったの。「他局に先駆けて自分はここまで取材をできた」という喜びが原動力でしたし、「大きな事件を人にはやらせたくない」という競争心もあったかもしれません。

事件の悲惨さ、凄まじさをどこまでどう伝えればいいのか、その判断にはいつも悩みましたね。ただ、少しでも多くの人に事件に対する問題意識を持ってもらいたいという思いから、伝えられることはできるだけリアルな表現を心がけていました。例えば、現場の温度。「寒いです」とただ言うよりも、「氷点下2度です」のほうが実感をもって寒さが伝わりますよね? だから、バッグにはいつも小さな寒暖計を入れていました。

ーー著書によると、数珠も常にお持ちになっていたとか。事件の被害者のご家族にインタビューする時に、亡くなった方の「顔を見てやってください」と言われてお仏壇に手を合わせることも多かったそうですね。人が亡くなるような悲惨な事件の現場に入ることに、怖さは感じませんでしたか?

東海林さん:仕事中は必死だから、平気で行けちゃうんです。ところが、自宅の近所で飛び降り自殺があった、と耳にすると、「えー!」と足が震えちゃう。感覚がおかしいの(笑)。そういう意味では、多くの事件を取材しても、「死」というものに慣れることはなかったですね。今はもう怖くて殺人現場には行けません。

ただ、世の中で起きる事件は心で追いかけていますよ。未解決の事件も多いことが気になります。とくに小さな女の子の失踪事件。私が取材した中にも未解決の事件があり、数十年経った今も時折、「あの子たちはどうしているのかな」と思いを馳せます。

芸能人の葬儀取材で伝えたかったこと

ーー芸能人の方々の葬儀リポートもよく担当されていましたね。とりわけ印象に残っているお葬式について、お聞かせいただけますか?

東海林さ: ある俳優さんのお通夜で、弔問客がとても多く、長い行列ができていた光景が心に残っています。芸歴の長い、脇役の俳優さんでした。弔問客の人数だけの話ではなく、大道具さんが仕事道具を抱えたまま、走り込んできたりするんです。有名な俳優さんも、スタッフさんも、その方にかかわってきたさまざまな人たちが列に並んでいる。その様子から、故人のお人柄が見えたような気がしました。

歌手のディック・ミネさんの葬儀で、異母兄弟の息子さんたちがズラリと並んで、仲良くされていた様子も忘れられません。ミネさんがそれぞれの息子さんとの関係を築かれていたからこその光景ですよね。一周忌のパーティーでもご家族が和気あいあいとされていて、素敵だなと感じました。

葬儀というのは、最後の最後に、その人の生きてきた姿が表れる場なんだと思います。だから、葬儀のリポートでは、その姿をしっかり伝えたいと心がけていました。また、葬儀の取材を通して、さまざまな方々の生きてきた姿に触れることで、「いい加減には生きられないな」と私自身も学ばせていただいたように思います。

現場を離れたきっかけは、阪神・淡路大震災の取材

ーー事件の現場を離れたきっかけは、阪神・淡路大震災(1995年)だったそうですね。

東海林さん:「もうこれ以上ひどいことは起きない」と思ったんですよ。実際には、その後も「神戸連続児童殺傷事件(1997年)」など数々の事件が続きましたし、東日本大震災も起きましたが、あの時は「もうこれ以上に悲惨な現場に出合うことはない」と思ったんです。

震災当日、私は前日に新潟で子どもの虐待事件の取材をしてテレビ局に戻り、それを放送する準備をしていました。ところが、地震が起きて「一刻も早く現場に行ってほしい」と言われ、ディレクターとカメラマン、上司と私の4人で神戸市長田区の避難所に向かいました。飛行機はすべて満席だったので、徳島を経由して伊丹空港へ。現場に着いたのはその日のうちでした。

当日の光景の凄まじさは3日後とはまったく違うんですよ。ところどころにまだ火の手が上がっていましたし、あの時は自衛隊の出動も遅く、生き埋めになっている人の救助を求める声がそこここで聞こえました。ギリギリの状態にいる人たちを同じ苦しみを知らない自分がどう取材すればいいのかわからず、本当に難しかったですね。それでも、現場を走り回るうちに被災した方々から少しずつお話をうかがえるようになったのですが、取材したことを一生懸命伝えても東京のスタジオとの温度差が埋まらないことに、虚しさを感じました。

ーー温度差、ですか。

東海林さん:360度どこを見回しても凄惨な状況を、テレビ画面に収めるのは無理なんです。ビルが崩れ落ちている様子や、救援に当たる人たちの姿をカメラで撮って、「こんなに大変なんです」と言葉を尽くして説明しても、離れた場所から観ている人たちには実感が伝わらない。だから、東京のスタジオからはより衝撃的な情報を求められるんですね。生中継でインタビューをする時に、「被災者の人にもっと、『何々がほしい』とか言ってもらえませんか」って。

「それは違う」と反発を感じ、スタジオに「皆さん、寝てないんです。疲れ切っていて、とてもそんなことを言える状況ではありません」と伝えました。それでも、インカムから「何か言ってもらってください」と指示が聞こえた時に、「これは限界だな」と感じました。どんなに必死になっても、ここで起きていることの凄まじさを伝え切ることはできないと思い知らされたんです。

ちょうど60歳になったタイミングでもあり、「これを区切りにしよう」と現場を離れる決意をし、フジテレビからテレビ朝日へ。司会やコメンテーターの仕事を中心にやるようになりました。「限界」と言うと、ネガティブに感じるかもしれないけど、違うの。やり切った、という思いがあるから後悔はないし、阪神・淡路大震災を含めて現場の経験すべてが、私を形作ってくれました。しばらくは、大きな事件が起きる度に「ああ、私が取材したかった」と悔しさも感じましたけどね。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
温かいごはんと、少し焼き色をつけてお醤油をたらした厚揚げ、かな。戦争中の食糧難を経験したから、食べ物には執着がないの。何でもありがたくいただいちゃう。子どものころに母がささっと作ってくれた味噌おにぎりの味も忘れられないわね。結局、シンプルなものが美味しいのよ。

福井県の油揚げ(厚揚げ焼き)

美味しい厚揚げといえば、全国でも有名なのが福井県。現地では、「油揚げ」と呼ばれています。厚揚げを香ばしく焼き上げて、大根おろしと醤油でカリッと食べる「厚揚げ焼き」は定番中の定番です。福井県にある厚揚げ焼きの名店で熱々をいただきたいですが、ステイホーム中はお取り寄せグルメとして活躍しそうです。

プロフィール

リポーター/ラジオパーソナリティー・東海林のり子さん

【誕生日】1934年5月26日
【経歴】埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。立教大学卒業後、ニッポン放送入社。アナウンサーとして13年間勤務後、フリーに。フジテレビ『3時のあなた』で事件リポーターとしてデビュー。現在もテレビやラジオ、講演会などで精力的に活動している。
【趣味】ロックバンドのライブ通い。
【そのほか】『現場の東海林です。斉藤安弘アンコーです。』(KBS京都ラジオなど5局ネット)にレギュラー出演中。X(旧ツイッター):@shoujinoriko

Information

近著『我がままに生きる。』(トランスワールドジャパン)では生い立ちや友人関係、夫との向き合い方といったプライベートなことまで半生を飾らずに語っている。「我がまま、というのは“自分勝手”ではなく、“自分らしく”、“自らの思いを大切に”という意味でタイトルにしました。あらためて自分の人生を振り返ると、本当にちゃらんぽらんだな、と苦笑するのですが、50代で確立した事件レポーターの仕事が人生の財産になりました。遅咲きでしょ(笑)。年齢に関係なく、人生を我がままに生きる。それこそが楽しく生きるコツだから、人生、いくつになってもあきらめなくていいってことが伝えたかったんです」と東海林さん。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)