画家として生きた夫を見送った
「最後の個展」のようなお葬式
神奈川県在住
M.M様(妻)
路上で絵を売り、画家への道を自ら切り拓いた夫
祭壇左横に飾られた絵は、2022年9月に開催されたグループ展に出展し、好評だった作品。たくさんの方々がこの絵の前に立って写真を撮っていました。
夫は画家でした。私もモノづくりを仕事にしているので、夫婦というよりはライバルのような関係性でしたね。彼には彼の、私には私の世界があって、おたがいの世界には踏み込まないけれど、相手のやっていることはわかっている感じ。アーティスト仲間として、アートイベントやクラフト展に一緒に出展したことはかけがえのない思い出です。
夫はもともと会社員として働いていましたが、画家への夢を追い求め、30代前半で退職。ゼロから路上で絵を売りはじめ、55歳で他界するまで、一貫して自分の道を自分で切り拓きました。凝り性で趣味もとことん追求し、音楽や車、バイクも好きでしたし、晩年は茶道に打ち込んで仕事にも取り入れていました。
一度決めたら絶対に曲げない頑固さを持つ人でしたが、常に人を気遣う優しさがありました。仲間内の集まりで場に馴染めない人がいたりすると、すっと話しかけに行くんです。福祉施設などでのボランティア活動も、長い間続けていました。夫は発達障害を持っていましたから、自分と同じように生きづらさを抱えた人に寄り添いたかったのではないからと思います。
亡くなる数年前からは「人の役に立ちたい」という気持ちが一段と強くなり、自分のことも後回しで人のために何かをしようとしていました。その姿にどこか生き急いでいるような感じがあって、気になっていたんです。ちょうどそんなころに肺がんが見つかり、入退院を繰り返すようになりました。
「夫は生きているのに」と葬儀の準備に葛藤があったけれど……
描きかけの絵が残された、夫のアトリエそのままの空間。作品を制作する時はこのアトリエにこもりっきりで、絵を描く姿を人に見せることはほとんどありませんでした。
「こんなことを言うのは酷だけど」と、葬儀について考えておくよう看護師さんから勧められたのは、夫が亡くなる数週間前。最後の3カ月は自宅介護をしていましたが、容体が悪化して入院し、主治医から「余命わずか」と告げられた日のことでした。
夫は生きているのに、なぜそんなことを考えなければいけないのだろう、と最初は抵抗がありました。一方で、ベテランの看護師さんの「慌ただしく葬儀会社を決めると、後悔の残るお見送りになりかねない」という言葉が心に響いて……。葛藤しながらも、もしもの事を考えた時、「何にもとらわれず自由に生きた彼らしく見送りたい」「個展のようなお葬式にして、お世話になった方々に画家としての彼の集大成を見てもらいたい」と思いました。
でも、どうすればそんなお葬式ができるのか見当もつきませんでした。そこで「お葬式」「オリジナル」のキーワードでインターネットを検索し、ヒットしたのが「家族葬のファミーユ」のオリジナルプラン。Webサイトを見て「ここなら、夫らしいお葬式ができるかもしれない」と感じました。
「夫が画家で、“最後の個展”のような式にしたい」と電話で相談すると、受話器の向こうで葬祭ディレクターの北さんがうなずきながら私の話を聞き、「任せてください」と言いました。その声の力強さにホッとしたのを覚えています。
自分の葬儀について、夫がたったひとつ遺した言葉
路上で絵を売っていたころの夫の写真と当時使っていた折りたたみ椅子とともにたくさんの作品が置かれた空間。色とりどりの落ち葉は、スタッフの方たちが公園で集めてきてくれたそうです。
夫が旅立ったのは、師走の始まりの朝でした。2年間の闘病生活は苦痛を伴うものでしたが、夫は絵を描くこと、伝えることを決してあきらめませんでした。最後は呼吸が自然と途絶えるような感じで、苦しまずに亡くなりました。
夫婦ふたりの家族で、病室にいたのは私ひとり。何をどうすればいいのかわからず心細かったのですが、北さんに連絡すると「すぐに伺いますから、奥様はご主人のそばにいてください」と言って駆けつけてくれました。
夫が亡くなってから葬儀までは、10日ほど。夫は生前、冗談交じりに「もし自分が亡くなったら、たくさんの仲間に見送ってほしい」と話していました。自分の葬儀についての夫がたったひとつ遺した言葉に応えたくて、週末のお式を希望しました。そんな経緯もあって式場の確保に時間が必要で、比較的長い期間を自宅で一緒に過ごしましたが、あっという間でした。もっと時間がほしかったくらいです。
夫の友人たちが入れ替わり立ち替わり弔問に来てくれ、何名かの方々には納棺にも立ち合っていただきました。最後の衣装は皆さんと相談しながら決めたんですよ。「これ、よく着ていたよね」と選んだコーディネートは、古着のジャージにベルボトムのジーンズ。いつものニットキャップを被った棺の中の夫は微笑みを浮かべていました。
夫のために最後にやりたかったことの
すべてがそこにあった
葬儀までの10日間、北さんは毎日我が家に来てくれて、夫の描いた絵や写真を眺めながら、画家としての夫の姿から大好きだったハンバーガーのことまでいろいろな話をしました。その都度北さんは、「これも飾ってください」と私がお願いした絵を持ち帰ったり、「写真を撮ってもいいですか?」と言って夫のアトリエの撮影をしたりしていました。
「家族葬のファミーユ」の皆さんがデザインしてくださった「個展ポスター」。見事な完成度にアーティストの友人たちも驚いていました。
ただ葬儀の内容については、最初にプランを決めて以降、とくに打ち合わせをした覚えがありません。ですから、葬儀前日に初めて式場に入った時、私が夫のために最後にやりたかったことのすべてがそこにあることに驚きました。エントランスに掲げられた「村田のりみちの世界展」のポスターに涙があふれ、自分の作品でいっぱいの空間で笑っている夫の写真に胸がいっぱいになりました。目の前に広がっていたのは、まぎれもなく夫の「個展」でした。
それだけではありません。式場の廊下には色とりどりの落ち葉が散りばめられ、夫の写真と作品が並び置かれて、路上で絵を売っていたころの光景が再現されていたんです。夫のアトリエそのままの空間や、お茶を点てている夫がそこにいるように写真が飾られた空間もありました。
このクリエイティビティにはもう、モノづくりをする人間のひとりとして「すごい」としか言えませんでした。北さんやスタッフの皆さんのお気持ちに心を打たれ、「なぜここまでしてくれるの」と涙が止まりませんでした。この間ずっとそばにいてくれた弟も、隣でうなずいていました。
画家にとって、作品は人生そのもの。
夫の人生をたくさんの人に見てもらいたかった
葬儀当日は、100名を超える方々にご参列いただきました。あっという間に時が過ぎ、この日の記憶は飛び飛びです。式場の撮影をする間もなかったのですが、後日いろいろな方が「素敵な葬儀でした」と言って写真を送ってくださり、あらためて当日の様子を思い出しました。
お葬式は1時間でしたが、北さんのご提案で1時間半ほど前から開場し、ご参列の方々に夫の最後の個展をできる限りゆっくりと見ていただけるようにしました。閉式後、私たちが式場を離れてからも作品を観てくださっている方が多く、全員がお帰りになるまでスタッフの方々が扉を開けておいてくださったと聞きました。
あの日、あの空間には、現存する限りの夫の絵がすべて飾られていました。画家にとって、描いてきた絵は人生そのもの。お世話になった皆さんに彼の人生を見届けていただけたことを、心からうれしく感じています。
夫は最後、もう会話もできなくなっていて、あの時、どんなことを思っていたのかわかりません。話しかけても答えは返ってこなくて、葬儀のことも彼がどう思っていたか、知るよしはありません。
ただ、私は同じアーティストとして、彼の絵をかけがえのないものだと思っています。だから、できるだけたくさんの方々に見ていただきたかった。その願いをかなえてくれた北さんをはじめ「家族葬のファミーユ」のスタッフの方々に感謝しています。
夫が亡くなって1年。彼のことを思い出さない日はありません。自分自身の生活を取り戻すのは簡単ではなくて、一歩ずつという感じです。さみしさが消えることはありませんが、よくよく考えれば、彼はあちこちに顔を出すのに忙しくて、いつも私のことは後回しでした。
天国では痛みから解放されて自由に飛び回り、生前のように「まあ、あなたは大丈夫」なんて言っているのではないでしょうか。私のことを一番よくわかっているのは夫なので、きっとその通りなのだと思います。
【式場】本覚寺(神奈川県横浜市)
【時期】2022年12月
【故人】男性(55歳)
【喪主】妻
【会葬者数】101名
【葬祭ディレクター】北義憲
【葬儀プラン】オリジナルプラン
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