スクールガード姿の亡き父と地域の方々が
笑い合ってお別れした温かなお葬式
千葉県在住
E.K様(ご長女様)
大好きな町で、
スクールガードを20年間続けた父
家族のあたたかい時間を守ってくれた、父と過ごした思い出があふれる空間。
この町に私たち家族が越してきたのは、50年前。両親はあっという間にご近所の方々と仲良くなり、私と妹は地域の優しいまなざしに包まれて成長しました。
母は私が高校生、妹が中学生の時に倒れ、20年の闘病生活の後、60歳で亡くなりました。父は働きながら病院に通って母を支え、家事もいろいろとやってくれて、大変だったと思います。でも、暗い顔は一切見せず、母の分まで愛情を注いで私たちを育ててくれました。
母が亡くなる少し前に実家を二世帯に建て替え、父はすでに嫁いでいた妹一家と暮らしはじめました。母を見送った父にとって、妹家族の存在はとても大きかったと思います。私は結婚後北海道で暮らしていた時期もありますが、19年前に実家近くに移り住み、おたがいに行ったり来たりしながら、みんな仲良く過ごしてきました。
父と妹と、父にとっては初孫である
息子の結婚式で。
父は私たちの選ぶ道に口出しすることはありませんでしたが、「仕事だけはきちんとやりなさい」と子どものころから言っていました。その言葉を守り、私と妹は育児に専念した時期がありつつも、できる限り仕事を続けてきました。
妹は2男1女の母。末っ子が小学校に上がったころに再び働きに出るようになり、現在は「家族葬のファミーユ」のホールアテンダントの仕事をしています。朝早く仕事に出かける妹に代わり、父は近くの通りで登校する甥をいつも見送っていました。
「緑のおじさん」として、父は
近所の子どもたちを20年間見守り続けました。
それがきっかけで町会からスクールガード活動のお誘いがあり、20年間続けました。緑色のベストを着て交差点に立ち、黄色い旗を片手に「行ってらっしゃい」「気をつけてな」と子どもたちに声をかける父の笑顔が今も目に浮かびます。
こんなに突然別れの日が来るとは
思っていなかった
定年後の父は脳梗塞、大動脈解離など大きな病気もしましたが、持ち前の気力で回復。10年前に見つかった間質性肺炎も発症せず、毎朝元気にスクールガードに出かけていました。ソフトボール、ゴルフ、囲碁など趣味も多く、地元の町会のクラブに所属するだけでなく、近隣の町会にも顔を出していたようです。
夫婦の記念写真、ゴルフを楽しむ父の姿、趣味のグッズをたくさん集めたコーナー。
その父が「ちょっと息苦しいかな」とぽつりと言ったのは、亡くなる半年くらい前。それでも元気に過ごしていましたから、年のせいかもしれないと思っていました。妹によると、入院する前日は、夕方に息苦しいと言ってはいたものの、大好きなうなぎを食べて満足そうにしていたそうです。
入院した日は、父の様子がおかしいと妹から連絡を受けて実家へ。新型コロナウイルスの抗体検査が陰性でしたが、血中酸素飽和度が低く、病院に電話をしたところ「すぐに来てください」と言われ、妹の車で向かいました。
車を降りた父は「そんなに急かせるなよ」と言いながら自分で歩き、看護師さんに車椅子を勧められても必要なさそうにしていました。でも、その時点ですでに父の肺のレントゲン写真は真っ白で、2日目に容態が急変。その後、8日間も頑張ってくれましたが、入院10日目に父は息を引き取りました。86歳でした。
年齢も年齢だけに、遠くない将来、父との別れがやってくると頭ではわかっていました。でも、こんなに突然その日がやってくるとは思っていなかったんです。私も妹も心の準備ができておらず、父が亡くなった直後は何も考えられませんでした。
コロナ禍でも、地域の方々と一緒に
父を見送りたかった
父の葬儀は「家族葬のファミーユ」にお願いすることを最初から決めていました。妹が「家族葬のファミーユ」の葬儀に誇りを持ち、心を込めて仕事をする姿をずっと見てきたからです。彼女が心から納得できるような葬儀で父を見送り、後悔のないようにしてほしいと思いました。
ただ、たくさんのご葬儀をお手伝いしてきた妹も、父を亡くした悲しみで涙が出るばかり。ふたりとも葬儀について考える余裕がなく、私たちから「家族葬のファミーユ」にお願いしたのはふたつだけでした。「父が好きな黄色のお花でいっぱいの、父らしく明るい葬儀にしたい」。そして、「地域の皆さんにも来ていただくこと」です。
父が好きだった色は黄色。葬儀は9月でしたが、手に入る限りのひまわりを集めてくださいました。
最後に入院した時、父は翌日のスクールガードのことを一番に心配し、苦しそうな声で「町会長さんに連絡してくれ」と言いました。「大丈夫だから、話さなくていいよ」と声をかけても、「囲碁クラブも休むって言ってくれ」としゃべり続けました。
地域の方々が大好きだった父のために、コロナ禍ではあっても、皆さんと一緒に父を見送りたい―― 。私たちのそんな思いを受け止め、葬祭ディレクターの鈴木さんは送迎のバスを時間差で2便用意する、式場内が混雑しないよう父の思い出の品々を飾ったスペースを順番に歩いていただく、などの工夫を提案してくださいました。これなら安心してお越しいただける、とほっとしたのを覚えています。
小さなお子さんや青年まで
父の死を悼んでくれた
お通夜の日は秋雨。肌寒い中傘を差し、多くの方たちが参列してくださいました。町会で日ごろ父とおしゃべりして笑い合っていた皆さんががっくりと肩を落とされている様子を見て、父といつまでも一緒に過ごしていただきたかったのに、と涙が止まりませんでした。
町会の掲示板で父の訃報をご覧になったのか、私や妹がお会いしたことのない方たちもたくさん来てくださいました。スクールガード中の父とあいさつを交わしていたのでしょう。親御さんに連れられた小さなお子さんが多く、可愛らしい字で書かれたお手紙もたくさんいただきました。
お通夜で父にいただいたお手紙の数々。短い時間の間にボードに貼ってくださり、ご会葬の方々も熱心にご覧になっていました。
黒いTシャツに黒ズボンのおしゃれな若い男性もお焼香をあげてくださいました。すぐにはどなたかわからなかったのですが、姪から「〇〇さんのお兄ちゃんだよ」と教えてもらい、姪から見せてもらったSNSの投稿を思い出しました。
この男性は幼稚園のころから毎朝、あの交差点で父の「いってらっしゃい」の声に送り出されて出かけていたそうです。父の他界を知り、彼は父についてSNSにこう綴っていました。
「いつもの所にいつもの人がいない。あたり前の日常が、あたり前ではなくなっていた。日常に感謝しなければいけない」
こんなにも多くの方たちと父がとつながり、父に思いを寄せてくださっていることに驚きました。親族だけの葬儀だったら、私も妹もそのことに気づかないままだったかもしれません。皆さんにお越しいただけてとてもありがたく、胸がいっぱいになりました。
亡くなった父とご会葬の方々の
「笑顔の撮影タイム」
祭壇の両脇には父の写真パネルを設置して、お世話になった方々をお出迎えしました。
父の他界を周囲にお伝えした時、「信じられない」「先週まであの交差点で旗を振っていたのに」と全員がびっくりされていました。お世話になった方々にお礼も言う間も無く旅立ち、父は残念でたまらなかったはずです。「せめてもう一度、皆さんに会わせてあげたかった」と悔やまれました。
沈んだ心に明かりを灯してくれたのは、式場内に飾られた父の思い出の品々を前に和やかに父を偲んでくださっているご会葬者の姿でした。皆さんが一様に目を留めていらっしゃったのは、父の等身大の写真パネル。とりわけエレベーターの中に飾られたスクールガード姿の父のパネルには驚きの声が上がりました。
エレベーターの中の、父の等身大写真パネル。開式前は白い吹き出し部分に帰りのバスの時刻表が貼られていましたが、閉式後は「気をつけてな~」の言葉が。
パネルには皆さんがお帰りになる時間に合わせ、ある言葉が添えられました。父の口癖の「気をつけてな〜」です。まるで父がそこにいるようで、皆さんも喜んでくださり、多くの方がスクールガード姿の父と笑顔で写真を撮影されていました。
大好きだった皆さんと最後に笑い合え、父はどんなにうれしかったことでしょう。「あんな大きな写真、恥ずかしかったよ」と照れながらも、天国で喜んでくれているに違いありません。
葬儀の最後、父の棺にお花を入れながら、「お父さん、今まで守ってくれて本当にありがとう。天国でお母さんと仲良く過ごしてね」と語りかけました。父の葬儀は私たちにとって、父の存在のかけがえのなさとともに、地域の方々の温かさ、ありがたさを改めて感じた時間でした。
父が妹に最後に残した言葉は、「家をよろしくな」でした。父と母、私と妹の4人で暮らしたあの場所で、妹たち家族はこれからも生活していきます。父が築いてくれた地域の方々とのつながりを大切に、妹が家族仲良く、いきいきと働いて、笑顔で人生を歩んでいけるよう、私もできるだけのことをしていくつもりです。
父の好物ばかりが並んだお供え。焼酎「森伊蔵」は町会の方々から。焼きナスは「家族葬のファミーユ」のスタッフのお手製でした。
父とともに大切な時間を過ごしてくださった皆様に心から感謝申し上げます。
【式場】ファミーユ大久保駅前(千葉県習志野市)
【時期】2022年9月
【故人】男性(86歳)
【会葬者数】 116名
【葬祭ディレクター】鈴木望海
【葬儀プラン】オリジナルプラン
通話無料
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※ 無理な勧誘・執拗なご連絡はいたしません。